Dr.1847 過去を振り返る(1月23日)
不安症対策今日の学びは、「過去を振り返る」「楽しかったことを思い出す」だ。これも一般的には、「過去の成功体験ばかりに浸っていず、前(未来)を向いて進め」と言われることの逆の提案だ。
不安症は特に未来のことが心配になる。そのことばかり考えて心身ともに疲労する時間を減らすためにも、過去の特に楽しかったことを振り返るということらしい。
過去にとらわれていないで未来を考えないと生産的でないと言われるが、人生を生産性で考える問題点は自分自身でも気づいていた。たかが人生、生産性生産性といったところでたかが知れているし、生産性生産性と言って生産性があがるならまだしも、そんなことはないのだから。
さらには生産性の高い(例えばよく稼いだ)人生だとしても、終わる時には裸で終わる。そんなことよりも、楽しかったかどうか、満足かどうか(ドクターの場合は満足の中には人に喜んでもらえたかどうかが入りますけど)がより重要だと思う。
そこで、手始めに「この一週間で楽しかったこと」を考えて見たのだが、「身体を動かして美味しい一杯を頂いた」ことが一番思い出される。それなりにプチ幸せ(いろんな場所で「オー」挨拶をするとか)はあるけど、そんなにごっつい幸せは思いつかない。
でもこんなプチ幸せが感じられる日々、当たり前の日々が送れていることが一番の幸せなんだろうとは気づきつつあります。皆様ご一緒に、日常のプチ幸せに思いを馳せながらぼちぼちいきましょう。
☆日常の朝の景色。見慣れた景色ですけど、改めてみると結構きれいですよ。

Dr.1846 まあいいか(1月22日)
不安症対策の次の学びで、これもまたドクターが前からよく言っている「まあいいか」(本では、『まあ、仕方がない。そういうこともあるよね』という言葉として紹介されている)が出ていた。
「まあいいか」や「とりあえず」はドクターの口癖で、これで気が楽になることもあるのだが、最高を求めようとしない妥協の姿勢として実際に否定的な言葉を言われたこともあるし、自分でも気になっていたのだが、この本では「過去の失敗と将来の不安を抱えたまま、とにかく止まらずに動き続ける」との有用性として大事なこととだと言っている。
これで意を強くしたのだが、「まあいいか」(「とりあえず」も)は最善ではないかもしれないが、とにかくそれを受け入れて、今の状況で自分に出来ることをやっていく、あきらめきってしまわない。次善でもともかく前へ進むということで、意味があったのだ。
これからは大手を振って「まあいいか」で元気を維持して前へ進みたい。世の中、ベストな事だけ(望み通りのこと)がやってくることなどほとんどないのだから、「まあいいか」「仕方ない」で事態を受け入れ、次に向かって進んで行きましょう。上手く進めなくても大丈夫「まあいいか」「しかたない」でとりあえず事態を受け止めて出来ることをやって行きましょう。これで十分、これが良いのではないでしょうか。
というようなことで、今回もドクターがこれまでやってきたこと、言って来たことが理に適っていた(この本の著者と同じ考えだった)ことが分かってきた。良い感じで学びを進め、これらをまとめてどこかで発表したいという思いがやってきました(前に高齢者大学でやったように思うけど、違ってるかもしれません、『まあいいか』)。
☆トレーニング帰りに見た山からの水蒸気。トレーニング帰り写真多いですけど「まあいいか」。やっぱ「まあいいか」最強です。皆様、これで行きましょう。

Dr.1845 不安症対策(1月21日)
「不安症」の本を少し読んで、かじった対策の一つは、不安になる時間を与えないために別のことをするというようなことです。これも以前から「小人閑居して不善をなす」ということで気が付いていたことだ。
「小人」(大したものでない人)のドクターとしては、閑な時間があるとろくなことを考えないので、何かしらやる事がある方がいいと思ってました。それで、よく「いつものようにバタバタしています」みたいなことを、時々書いていたと思います。
落ち着いて人生を考えたり、ゆっくり自分のしたいコトを考えて取り組むのがいい人はそうされたらいいと思いますが、ドクタータイプの人はバタバタと、やらなければならないこと、やる羽目になったこと、人から頼まれたことなどを、深くでなくてもいいから、自分にできる範囲で全力で(でも無理しない範囲ですけど)やっていく。そして気が付いたら、こんなに時間がたっていた(一日が終わっていた、もう一月たった、1年早いな、もうこの齢か、みたいな)というのがよいように思います。
じっくり自分の人生を考えなくては充実した人生にならないように言われてますが、じっくり考えたからと言って人生が上向くとは限りません。人生をそう大層に考えるのも不安をあおると思います。「たかが人生、されど人生」あたりが丁度良いのではないでしょうか。
今回も又、自分がこれまで考えたことの内容と一致するものでした。やっぱりこの本は前に読んでいたのなか、でも最近出たばっかりの本だし。ということは、ドクターも自分の考えたことを本にできるのだろうかと思ってます。こんなお気楽な奴は「不安症」とは言えないのでしょうかね。
でもよく奥様からは、「自分勝手に不安症なやつ」と言われます。このあたりが正解ですかね。
☆昨日のホッケータウン認定式。この後、いろんな用事があってバタバタした休日でした。こんな感じで一日が過ぎるのがドクター的にはいいようです。

Dr.1844 不安症(1月20日)
「不安症」に関する本を読んでいて、前に自分でも考えたことと同じことが書いてあって意を強くした。それは遺伝子的に、「楽天的」な人よりも、「(将来を不安視する)悲観的」な人の方が生き延びる確率が高かったので、今生きている人はどちらかと言うと、将来を心配する不安症と言うのか悲観的傾向の人が多いということ。
比較的安全な現代とは違い、原始時代には用心しないで「まあ何とかなるやろと無防備な人」は生き延びられなかったのに対して、「最悪の事態を想定して(考えて)、常に用心し備える人」の子孫は生き延びる確率が高かったと考えるからだ。ドクターは自分の心配傾向を分析して、ちょっと安心するために、「今を生きる多くの人は、自分と同じように不安的心配的傾向がある」と思いたかったからか、こうした自分勝手説を考え出したが、本に書かれているほど満更根も葉もないことではなかったということ。
あるいは、前にどこかでこういう説を読んでいて、いつの間にか自分が考えたと思い込んでいるのかもしれないが、いずれにしても、世の中には将来に心配を抱く人が多いということだろう。
大事なのはその後の、だからどうしたら生き易いかと言うことだ思うが、それについては(覚えていれば)次回、本を読み終えた後に自分の考えも入れて述べようと思います。
でも恐らく、こたえは「流れを信頼して、自分に今できることに全力で(だけど無理し過ぎずに)あたって、一日を過ごして一杯飲んで寝る」みたいなことになるとは思いますけど、まだ確かなことは言えません。乞うご期待を。
☆前に乗せたかもしれませんけど、何日か前の雪景色です。前のことはよく覚えられなくなってます。これも心配症にはプラスかも知れませんけど。

Dr.1843 覚えてますか(1月19日)
スポーツセンターで、市内で校長をしていた時の教え子夫婦に出会った。子どもの習い事(バスケ?)の送迎に来ていたのだった。まず旦那のほうが「丹後さん」と言って近づいてきた。ちょこっと話をしてるところに、奥さんがやって来て「ほら、丹後さんやで」と言ってうながした。
こどもは三人いて、市内の小学校に通っているらしい。奥さん(これも教え子です)は、「ほんとに私たちのこと覚えてますか」とせまってきて、最後は「子育て環境よくしてくださいよ」と念押しされた。去り際に一番下の子は手を振ってくれ、年上の子は同じように手を振ろうとして(年頃なのか)ちょっと恥ずかしそうに躊躇した。子どもは可愛い。
市内では時々教え子に会うことがあって、何人かは教え子同士で結婚している。いろんな場面、いろんな立場で出会うが、みんな元気に幸せに暮らしてほしい。
スポセンでは、教え子に会うことも、新しい人と出会うこともある。やはり短時間のスポセン通いはやめられない。
☆教え子や新しい出会いもあるスポーツセンター入口。今夕も又ひと汗流して、後の一杯行けますように。
