Dr.811 やっぱりほどほど(10月31日)
トレーニングセンターでよく顔を合わせる方が、「筋肉はそこそこ付いてきたけどお腹のぽっちゃりがとれません」と話しかけてこられた。こちらもぽっちゃり腹なので偉そうなことは言えないが、「それはやっぱり運動だけでなく食事も制限しないとだめですかね」と返した後、「でも食べるのや飲むのを我慢してお腹がへっこんだとしても、生きる楽しみが減ってしまっては何のために腹をへこますのかわかりませんしね」と我々のぽっちゃりお腹を擁護する発言を付け加えた。その後二人で、「だからと言って好き放題食べまくっていては長く人生を楽しむことが出来ないし、ここはやはり人生の楽しみの一つの食事を楽しむのも、運動やダイエットで健康維持に励むのも『ほどほど』ですね」ということで落ち着いた。食事制限も健康のための運動もほどほどにはやらなければならないが、やりすぎてその為だけに生きているという感じなると何のための食事我慢&健康トレーニングか分からなくなる。『ほどほど』『適当』ついでに『流れ任せ』はやっぱり人生のあらゆる分野に当てはまる奥深い考え方だ。
☆昨日久しぶりに散髪に行ったが、いつもより間隔があいたので馴染みの散髪屋さんはカットしにくそうだった。かと言ってあまり頻繁では切る髪もないし、お金もかかる。ここでもやっぱり「ほどほど」の時に行くのが良い。
Dr.810 束の間の喜び(10月30日)
この間の人間ドック受診から始まる一連の騒動が、昨日の内科診療で一応の終止符を打った。レントゲンやCTに写っている肺の影は、今後数カ月ごとに検査をして様子を見ましょうということになり(今すぐ投薬するほど重症ではないということ)、高かった肝機能の数値は空腹時に高くなるものや筋トレ後に高くなる傾向のある数値で今のところは問題ないでしょうということになった。人間ドックE判定から昨日の結果が出るまでの間の心の動揺は、ドクターの気の小ささからくるものだろうが、余命の覚悟までするほど大層なものだった。それだけに昨日の診察結果は大きな喜びになった。このように多大なストレスを与える人間ドックは検査時の放射線被ばくの問題もあって、受けない方がよいという人もあるが、この日の喜びが本当に久しぶりの大きなものだっただけに、時々は人間ドックを受けるのも悪くないかもと思わされた。でもその後はいつもの日常が戻ってきて、流れで引き受ける厄介ごともあって、束の間の喜びで終わったのは残念だったが、これまでの人生経験からすると、喜びも心配も結構束の間って感じでやってくるものなので、まあこんなものかな。
☆たんば医療センターで視察を受け、「今のところ大丈夫」と聞き大喜びするドクター。でもその後いろいろ厄介なこともやってきて、喜びの感情は束の間で終わる。でもまあ、束の間でも喜べたことは良かったかな。
Dr.809 脱生産性(10月29日)
現役時代は生産性や効率が求められたが、退職後の生活充実には生産性や効率にとらわれないことが大事だ。何せ時間はたっぷりある。逆に、効率や段取りが悪くモタモタして時間が掛る方が、時間がつぶせてよい。その分、悩む時間やあれこれ考える時間が減って良い。「時間を有効に使う」という発想に長く親しんできたので、なかなか慣れないが、定年後の「有効」とは効率ではなく、「充実」や「没我」の時間と発想転換しなければならないかもしれない。人の寿命や余命はいくら考えても分からないので、そこに時間を費やすより、今の充実(充実まで行かないとしたら、今を夢中で過ごすーここの夢中とは何も考えないという意味です)に心を配りたい。そのようにして一日一日を精一杯(ここでも「精一杯」の方向は、無理なく流れに従って今できる一杯の楽しみを見つけるという意味です)生きて、いつか寿命が来たらこの世からあの世に移る。そういう大きな流れで生きるしかないように思う。
☆道端にこんなススキが咲く温泉でサウナに入りながら、何も考えない時間を過ごした。全然生産的ではないが、気持ちの良い時間だった。こんなんで良いのでしょうか。
Dr.808 セイロン紅茶(10月28日)
議会の仕事や地域農業法人の仕事や冒険指導の合間を縫って、生き方や定年後の世界について研究している。それに関する書籍も拾い読みするが(精読する根気がない)、そこには①理想の姿からできなくなったことを数える「引き算」ではなく、まだできることや新たにできるようになったことを数える「足し算」で考えよ、②出来る人や恵まれた環境にある「他人と比べない」、③人の価値を「生産性で考えてはいけない」、④「貢献感」が生きがいに繋がるので人のための行動をせよ等の意見が述べられている。どれも「正論」だとは思うが、なかなか実行は難しい。そもそもこれらのことが実現できているなら悩みもなく、本も読まない。こんな正論ではあるが簡単には実行できない意見に触れると、ドクターはそれを「セイロン紅茶」と呼ぶ。別に揶揄するつもりではないが、なかなか普通の人(ドクター)にこの考えをしろというのは難しいですよという意味を込めている。一応知識として知っておくことは悪くないとは思うが、やはり現実を生きるには、ドクター流「流れに任せて生きる」が有効というのか、それしかないような気がする。「流れ」の中で、こんな本を読み正論に触れる時間が合っても良いし、それはそうだがその通り実行できないという現実があっても良い。少しの間は「セイロン紅茶」で喉を潤すことがあっても良いが、それが続かないとしても嘆く必要はない。「自然の成り行きに任せて、流されるまま進もう」、この考え方もどこかで学んだのかもしれないし、また手放すかもしれないが、それも流れ次第だ。
☆この日は議会の後でジビエ丼、幸せな時間も心配な時間もごちゃ混ぜで流れていく。
Dr.807 生き延びる(10月27日)
人間ドックE判定を受けての精密検査を受けての診察で、即入院かもと覚悟しての受診だったが、結果は「しばらく様子を見ましょう」ということだった。身体に何も問題がないということではなかったが、即入院や即手術でもなく、即投薬でもなかったことは有難いことだった。まだ今週もう一つの診察があり、油断はできないが、ひとまず生き延びた感じだ。本人は特に致命的な体調不良は感じず(老化に伴う機能不全はいたるところをで感じるが)いたって元気だが、周囲の同年代があいついで入院や大病を患うという実態があるだけに、流石の上機嫌派も心落ち着かなかった。案外小心者で、妻から言わせると「気にし過ぎ(で弱気のおっさん)」ということだ。ともかく一つの一番心配した診断結果では当面何もしなくて良いということなので、一挙に解放感で一杯になった。何事でもたいそうな一喜一憂派だ。しばらくはこの「一喜」気分を続けたい。
☆診察を受ける前の不安を抱えたドクター、この後本物のドクターの診断で「当面大丈夫」の判定を頂きウキウキになるが、今週もう一つの診断が待っている。