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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.886 そこから始まる(1月20日)

特に予定のない日は、気を付けないとダラダラ過ごしてしまう。時にはダラダラもいいが、毎日がダラダラだとそれにも飽きてしまうので、毎日ダラダラは好まない。ドクターの平日は、テレビで毎朝同じ時刻に放映される「紙〇 ロペ」という短いアニメを見ることから始まる。そこから1日が始まり、そこから逆算して前の日の就寝時刻が決まり、その時刻に寝るためには何時に入浴して、夕食は何時頃と前日(というのか今日)の予定が大体決まってくる。このアニメを見るのを基に一日が進んでいる感じだ。こんなことは自慢げに言うことでもないが、言いたいのは「人生そんなもん」「たいそうに考え過ぎてはいけない」ということだ。人によって「そこから始まる」1日、1週間、1年、一生の「そこ」は違うだろうが、「そこ」はあった方が良いし、「そこ」のレベルには拘らなくていい。「そこ」は他人と比べるモノでもないし、「そこ」からどこまで行くのかはその人次第だ。「そこ」は一つの起点に過ぎない。さらに言えば、どこまで行くかにも拘らなくても良い。どこまで行くかは持って生まれた「流れ」によっている。ただ「流れ」は大事にして、天命に従い行くところまで行くのを拒む必要はない。

 ☆今朝も「紙〇 ロペ」を見てから、ドクターの「流れ」に任せた1日が始まる。

Dr.885 役に立つ(1月19日)

絶こうちょうに生きるためには、「貢献」と「感謝」が大事だということは分かるが、この「貢献」が難しい。現役時代は仕事を通して社会の役に立っていることは間違いないし、特に教師は子どもや保護者や地域の方等から感謝の言葉を頂いたりするので分かりやすい。表立っては感謝の言葉がない業種も、どの業務もが繋がって社会が成り立っているのだから、社会に貢献しているのは間違いない。社会貢献等でマスコミなどに取り上げられる人だけでは世の中は回らない、その有名人の食べる物や着るものを作る人もいるし、その食べる物を作る人の家を作る人もいるし、家を作る木を植える人もいる。こう考えると一つとして社会に役立たない仕事はなく、仕事に就いている人は全て「貢献」を果たしていると言える。問題は仕事に就かない(又は就けない)人や定年後に仕事をしない(あるいは出来ない)人だ。現在(人生の中のこの期間、1年の中のこの期間)は仕事をしていなくても、別の期間には仕事をしたことある人もまだ「貢献者」として理解しやすいが、これまでもこれからも仕事をしない人はどうなのだろう。「役に立つ」かどうかも大きな視野で考えなければならず、「仕事」も狭い意味でとらえるのも違うように思う。人間として生まれ、生かされ、寿命まで生を全うする、これでいいし、これしかない。「貢献」「役に立つ」視点は大事だが、この意味をあまり狭く考えては間違うような気がする。今生かされている人みんなが夫々の生を生きている。

 ☆先日は裏山の草を雑に刈ったが、これがどう世の中の役に立っているかは簡単には分からない。

Dr.884 そうは言っても(1月18日)

相変わらず「絶こうちょう」人生の研究をしている。いろんな本を読むが、その中には「人は一人で生まれてきて、一人で死んでいく(だから孤独を怖れる必要はない)」や「(人との関りは元気な老後や認知症対策に必要なので)いろんなサークルや会合に自分から出かけて行こう」とか「(年金に頼らず生活するためや定年後充実のためにも)定年後も働き続けることが大切」などと説くものも多いが、「(言われていることはその通りだとは思うが)そうは言っても簡単に実行できないから困っている」というのが自分も含めて大方の人ではないだろうか。「わかっちゃいるけど実行できないのはあなたが悪い」と言われれば、それもその通りだとは思うが、「それじゃあどうするのか」という答えが欲しい。頭では分かっていても実際には退屈な日々しか送れない人が、どうしたら、あるいはどう考えたら、心落ち着いて「絶こうちょう」「上機嫌」に生きられるか。この難しいテーマに取り組んでいる。今のところトータルとしての妙案は見つかっていないが、それでも「死や病気など自分の思い通りにならないことやどうしようもないことは流れに任せて考え過ぎないのが良い」という部分的な👍アイディアには到達した。ここから先をこれからも本や自分の体験と格闘しながら追い求めていきたい。でも「格闘しながら」というのは、上機嫌、お気楽という自分の目指す生き方に合わないので、もう少し肩の力を抜いて「見つかればよし、見つからなければそれはそれで仕方がないか」ぐらいなスタンスで行かせていただきます。

 ☆長らく姿を見せなかった池の金魚が姿を見せたり、朝雲の中で小鳥の鳴き声が聞こえたり、良い兆しはある。

Dr.883 考えて見れば(1月17日)

考えて見れば、何も変わったことがない日常に、「飽きた」だの「マンネリ」だなどと不平不満をいっている場合ではないことに目覚めることがある。26年前に体験した阪神淡路大震災のような災害は勿論、教員時代の生徒からのクレーム、管理職時代の保護者や教職員からのクレーム等、若い時代や現役時代には大変なことがしょっちゅう(これ漢字変換できませんでした)あった。中には何日も何週間もかかる問題もあり、楽しいこともあったけど大変なことも結構あったというのがこれまでの人生だ。今は大変なことや心配なことが全くないわけではないけど、現役でないこと(議員や冒険指導などの現役を除く)や「考えてもどうしようもないことは流れに任すしかない」哲学の学習深化によって、結構毎日が穏やかに過ごせている。穏やかな毎日を「退屈だ」「新鮮味がない」というほどだが、それじゃこれまでのような波乱万丈が良いかと言えばそうでもない。そうだとすれば、「平凡な毎日」を心穏やかに感謝心を持って味わうのが良い。これはもう結構人生達人の域に達しているようにも思うが、達人にしては落ち着きがないのはどうしてだろう。

 ☆知の宝庫の図書館へ行く、悟ったようで悟ってないドクター。

Dr.882 マンネリ(1月16日)

今朝は時間があったので過去のブログを見返した。特にこの1月~3月は百姓仕事や冒険教育などの用事がないため、同じような毎日が続きマンネリで飽いて来て、その対処に困ってしまう時期なので、定年後どのように過ごしていたかと覗いてみた。すると過去2回ともこの時期はマンネリ・退屈に苦しんでいたことが分かった。来年も同じように退屈で過去のブログを覗いていたら、また同じことを言ってるのかもしれない。それぐらいこのマンネリ・退屈は定年後生活の大敵だ(過去にも同じように書いていたが)。これへの対処法も過去と同じく、マンネリでも元気で過ごせることへの「感謝」と、少しでも自分の出来ることで人の役に立つことをやる「貢献」ぐらいしか思いつかない。長くこの二つがキーワードだということを思い続けているのだから、この二つは結構自分にとっては真理に近いのだと思うが、その癖毎回この時期にマンネリと退屈に苦しむということは、この真理だけでは不十分なのか、真理の理解が足りないかだと考えられる。結論としては、これからも解決策を探求していくしかないということになる。かくしてドクターの「定年後絶こうちょうの生き方」を探求するマンネリした生活が続くことになる。

 ☆今年の1月は議員活動でいろんな場所を訪れ、いろんな人の意見を聞くということが加わっているが、これも毎日同じというのは良くない。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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