Dr.860 お手本(12月24日)
校区まち協の青パトに参加した。自動車に青色回転灯とスピーカ―をつけて防犯や交通安全の呼びかけを行う活動だ。昨夜は3人で回ったが、そのうちの1人が間もなく80歳になるTさんで、自動車提供も運転もかって出てくださった。Tさんは自治会長をはじめ、いろんな地域・市内の役を長年にわたって務めておられる。普段は農業を中心に元気で活動され、地域の顔として立ち寄る人も多い。ドクターも長年にわたってお付き合いをさせて頂き、その人柄や人のために労を惜しまない姿勢は、人生の先輩としてお手本にしたいと思っている。特に定年後に自分のペースで、流れでやってくるいろんな役を引き受けながら、楽し気に生きられる姿は参考になるし、自分もこうやって生きられるとすれば安心だと思わせてくれる。こういうお手本が身近にあるということは幸いなことで、これからの人生に安堵感を与えてくれる。このお手本Tさんを参考に、自分流の流れ成り行き人生をつくっていきたい。
☆青パト時のベストを着けて、昨夜の先輩Tさんの言動を思い出し、やっぱり人生のお手本にすべきと確信するドクター。お手本があると安心して、それをもとに自分流が摸索できる、頼りになる大先輩だ。

Dr.859 関わり(12月23日)
午前中かかって苦手な事務作業(書類作成、宛名書き等)をして、午後からその書類を配って回った。一連の業務は流れで引き受ける羽目になった事務局の仕事で、苦手なことをするのはストレスもあるが、引き受けた手前途中で止めるわけにも行かず、一心不乱に取り組んだ。昼からの関係者回りは結構面白く、こんなことでもないと話さないような方々と会ったり、話をしたりするのは貴重な機会になった。お会いする方々とは狭い市内ということもあって、何らかの関りがあったり共通の話題があったりする。そしてやはり人と関わることは面白く、定年後に決まった組織で働かない者にとっては、元気に生きるためにも必要なことだ。定年後にうつ病になったり元気を無くす大きな要因は、心理的な不安だということを読んだ。成り行きで時間は過ぎていき、年金等で最低限の生活は保障されるとすれば、気持ち的に「これでいいんだ」とさへ思えれば、物理的生活的には生きるのに困らない。ところが「生きがい」や「孤独感」や「将来(死も含めて)への不安」などの心理的な差し障りが大きいと元気に生きていけないという。その点から言うと、不得意な業務をしなければならなくなった成り行き事務局だが、やる事は多くあっという間に時間は過ぎ、心理的な不安を感じている暇はないとい一利はあるということか。でも、やっぱり関りは面白いけど苦手な作業は御免こうむりたいと思ってしまう。ここでも一つ良ければ一つ厄介なこともあるという人生に共通の法則が当てはまる。
☆成り行きで引き受けることになった役のお陰で、いろんな関りの場所を訪問し、多くの人と関りは持てた。苦手な作業は嫌だが、関わりは面白い。世の中何でも一長一短。





Dr.858 助け合い(12月22日)
少し前から夜寝るときに口が空かないようにシールを貼って寝ている。これを貼る前は口で息をしていたようだ(自分では分からんけど)。ドクター鼻の穴は細く、以前には胃カメラを鼻から入れようとしてダメだったので、再度口から入れたほどだ(それ以来胃カメラはしていない)。そのせいかどうか、横になると鼻が詰まることが多く、寝る時口を開けることが多いようだ。このシールを貼ると口呼吸は出来ないので、強制的に鼻から息をするしかない。そうなると鼻が危機感からか、どちらかの穴は詰まらなくなった。通常は左穴が通っていて、右が詰まってることが多いが、時に左が詰まると右穴が通るようになる。両方通ることもたまにはあるが、一方が詰まればもう一方が通る左右鼻の穴の助け合いで今のところ両方とも詰まることはなく、息苦しくてテープを外すということはない。口にテープを貼るという(鼻で息をするしかないという)差し迫った状況を無理とにでもつくったので、それまでは口に頼りがちだった就寝時の呼吸において、左右の鼻の助け合いが起こったということだ。おかげで寝る時の呼吸が楽になったし、この「厳しい状況が助け合いを生む」という教訓を得ることが出来た。この教訓は他の人生場面にも当てはまるし、市政の課題の地域づくりにも当てはまる。ただ助け合いを得るために厳しい状況を作るというのは筋が違うし、この教訓をどう生かすかをあまり考えすぎると寝られなくなり、折角左右鼻の助け合いで得た熟睡の恩恵を無駄にすることになる。
☆お見苦しい寝姿をお見せして申し訳ありません。このスヤスヤテープのお陰で「助け合い」の教訓をつかむことが出来ました。下はお目直しの冬風景です。


Dr.857 ご褒美(12月21日)
流れで引き受ける羽目になった一仕事を終えて帰宅すると、サギに食べられたとばかり思っていた池の金魚たちが泳いでいた。サギの急襲と思われる跡(その日の朝に池周辺で目撃、池の中にサギの羽、近くに糞)があってから1週間ほど、十数匹いる金魚の姿は全く見られなかったので全滅したとばかり思っていた。あんなに動き回る魚を一匹残らず捕まえるとは、サギの捕獲力も適ながらあっ晴れと思っていたが、餌やりを楽しみにしていた母の落胆を思うと心が痛かった。それが1週間ほどしてほとんど全金魚が揃って姿を見せるという快挙に出会い、今度は金魚たちの俊敏さと連帯心に心を打たれた。何より嬉しそうに餌をあげる母親の姿に心からの安堵を覚えた。このような何かを頑張った後に、そのご褒美のような嬉しい出来事がおこるということは時々経験する。今回の流れで引き受けてしまった結構骨の折れる業務をひとまず終えた後の金魚との再会も、ご褒美と思わずにはいられない。ご褒美を狙って何かをするというのは良くないが、たんたんと流れでやる羽目になったことをやっていれば、時折はご褒美に出会える(こともある)。こんなこともあるから一層「流れで生きる」という人生訓というのか処世術を肯定してしまう。でも決して何かを期待しての行動(特に目の前の利益を期待しての行為)はしない方がいい。あくまで成り行きに従うという心持が大切と自他に言い聞かせる。
☆流れでやる羽目になった用事(会議の世話役)を終えて帰宅すると、そのご褒美のような金魚との再会が待っていた。でも毎回ご褒美を期待してはいけない。


Dr.856 QOL(12月20日)
QOLはクオリティ・オブ・ライフの略で、「生活の質」とか「人生の質」とか言われている。健康面や精神面などいろんな指標があるようだが、ただ生きるのではななく、QOLを高く保って生きるのが良いとされている。ある日妻に「わしのキューオーエルは有難いことに今のところ結構高い」と言ったところ、「えっ何言うてるん」と相手にされなかった。どうも「キューオーエル」の発音が悪く、何のことを言ってるのか分からなかったようだ。自分の言いたいことが相手に伝わらないというのは、生活の質がそれほど高くないようにも思うが、自分では今どこも痛くないし体は動くし健康面での質は上等を維持していると感謝している。これは自分でも少しは運動や食事に気を付けてはいるが、大部分は天与というのかご加護というのか運によるところが大きい。いくら自分で気を付けていても病気になったり、何らかのハンディキャップを負うことは往々にしてあるからだ。自分の努力の成果などと過信しないようにしたい。健康面のQOLや仕事面のQOLは今のところは恵まれていると思うが、幸福感というのか人生の充実面についてはどうなのだろうという疑問がある。とりたてて不満があるわけではないので恵まれているのかも知れないが、何か今一つ実感がない。幸福感については主観的な面が大きいので、自分が今の自分の状態をどう捉えるかということだ。この面を改善するため、「定年後の生活」や「流れに任せる生き方」などを探求しているが、まだまだ摸索中。この面でもQOLを高めるか、あるいは既にある高QOLに気付ける方策を探求したい。
☆愛車でドライブ中にこんな美しい景色が見られた。こんな時間が持てるってことは既に十分高いQOLですね。書いててだんだん自覚と感謝が湧いてきました。



