Dr.865 場(環境)は未来から(12月29日)
地域の消防団の年末警戒を慰問する自治会長さん達に同行した。地域選出の市会議員として日頃の消防団活動に感謝を表すためだ。行く前は夜間だし、夕食時にお酒は飲めないし、とちょっと躊躇する気持ちもあったが、訪問してみると団員の皆様のキビキビした態度や来訪を喜んでいただく姿に触れられて、参加してホントに良かったと思った。このように流れや役目でやる羽目になったことの中には、最初一見気乗りしないものもあるが、やってみると(終わってみると)結構満足ということが多々ある。ここはやはり、未来からやってくる役目・環境・場を信頼して、つまりは流れや成り行きを信頼して、気乗りしないことも含めてやって行くと、結果としては結構充実した過ごし方になる。そんなことを改めて痛感した夜の消防団訪問だった。
☆各詰め所では隊員の皆さんが出迎えてくださった。ご苦労様です、ありがとうございました。



Dr.864 一粒の麦(12月28日)
時間が出来たので地力アップの肥料を撒いて荒鋤きをした。ドクターはこの肥料を撒く時、「一粒の麦もし地に落ちて死なずば・・」という聖書の言葉を思い出す。全く状況は違うし、解釈も間違ってると思うが、ドクターの思いはこうだ。もしこの肥料を買ったままにしておけば何の役にも立たないが、田んぼに撒いたならばいくばくかの効果はある。だから今撒くのが最善のタイミングではないかもしれないが、撒かないよりはましだと考えて、撒ける時に撒いておこう。素人百姓のドクターとしては、肥料や除草剤を撒くときになるといろんな不安が頭をよぎるが、その不安を取り除くために、この言葉を横引きして強引に自分の心を納得させる。「完璧な撒き方ではないかもしれないが、(一粒の麦のように)もし地に撒かなければ(死なずば)、何の成果もなくなる」から、それよりはマシと考えて勇気を持って(適当にでも)撒こう、となる。麦と肥料は全然違うけれども、地に落ちるというのと地上に撒くというのがイメージ的に似ていることからの引用だが、このドクター流解釈は肥料やり農作業以外にもいろんな局面で使える。所詮人のやる事は完ぺきではないし、ましてや脳の老化で記憶力の減退が進む身では不完璧さがいっぱいだ。そんな時、完璧ではなくても何も行動しない(地に撒かない)よりはまし、不十分な点は後で補うか「まあいいか」で済ませば良い。こんな感じで、この言葉を大事にしながら、不安だらけの毎日を歩んでいる。
☆「一粒の麦」の言葉を自分流に解釈して、不安だらけの農作業そしてさらには人生を大胆にかつ大体で生きて行こうとするドクター。大体でも撒かないよりはマシ、やらないよりはマシと思おう。



Dr.863 待ちに待った(12月27日)
年末年始の長期休みが始まった。この1週間以上にわたる休みを普通には「待ちに待った」(休み)と表現する。フルタイムで働いている人にとってはこんな長い休みは盆と正月くらいだろうから、「待ちに待った」という気持ちは理解できるし、ドクターも現役中はそう思っていた。でも定年後の曜日関係なし不定期勤務の者にとっては、長期休みは「待ちに待っていない」し、そんなに楽しみという訳でもない。コロナ禍の今年は特にそうだが、そうでなくてもトレーニングセンターやいろんな施設が閉まっている年末年始は、どう過ごすのかに苦労する。週何日か予定が入っていて後は自由という、いつもの日(日常)の方が嬉しい。週末や年末の休みというのは、フルタイムで働き日頃自由がない人にとってのご褒美、楽しみ、「待ちに待つ」ということだと思う。ここらあたりの加減が難しい。自由時間がありすぎると休みの有難さが味わえないが、だからといって自由時間がなさすぎるのはしんどく息が詰まる。やはりここでも人生の大原則、「(何事も)ほどほどが一番」「いい加減が良い加減」の適正さを感じる。今後はこの原則をより大切に、いろんな場面の決定に当てはめていきたい。そうだこれを1年の計にしよう。でも年末年始がぴんと来ないので、「1年の計」ももう一つピンとこない。
☆地元の要望を受けて、丹波土木事務所が塗装してくれた自転車(歩道)橋。費用の関係で全面塗り替えが出来なかったが、ほどほど(出口部分のみ)の塗装でも要望が届いたことを有難いと受け止めます。


Dr.862 がんばらなくて良い(12月26日)
何人かの方にこの一年のお礼と議員活動の報告をさせて頂いた。その中のお一人に、これまでからドクターの心の支えでありいつも適切なアドバイスをくださる方がおられる。いろんなお話をした最後に「これからも自分の出来ることをがんばります」と話したら、「頑張らなくても良い。あなたは頑張りすぎるとしんどくなるので、いつもの自然体でいればよい」みたいなことを言っていただいた。この言葉を聞いて心がずいぶん心が楽になったのと、自分は自然にやっていても人の役に立っているんだという安堵感をいただいた。心配性のドクターに過度なストレスを与えないようにとの配慮から出た言葉であろうから、この言葉で慢心しないようにしないといけないとは思うが、「がんばらなくて良い」という言葉は不安症の人には元気を与える。要は自然体で元気を持って自分のペースで事に当たれということだ。頑張り過ぎたり、心配し過ぎたりすれば、本来のその人の良さが出ない。決してさぼれということではないと思うから、自分の出来る範囲で、ほどほどにしっかり自分の役割(流れでやるようになったこと)をやって行きたい。アドバイスありがとうございました。
☆妻から頼まれた息子の机の組み立て、ほどほどにがんばって何とか出来た。



Dr.861 おっさん体育(12月25日)
齢を取ると体力が無くなると嘆く人が多いが、若い時ほど体を動かしているのかと尋ねたい。年齢が行くと生物学的に身体能力は衰えるとは思うが、それに加えて身体を動かす(鍛える)時間の不足もあるのではないか。小中高(大学時代も含んで)の時には1週間に3~4時間の体育の時間があったはずだし、運動部ならほぼ毎日激しく身体を動かしていた。それに比べて歳が行くと、特に定年後に継続的な働き口がなくなると、意識的に身体を動かそうとしない限り、運動する時間は少なくなっているのではないか。これでは体力低下するのは当たり前だ。定年後元気でいるためには、週に3~4日、あるいはそれ以上に身体を動かす時間を学校時代の体育の時間(いわば「おっさんおばさん体育」)と思って設定するようにしたい。時間があるのだから、そして放っておくと体力が低下するのだから、若い時よりも体育の時間は多く取りたい。ドクターはほぼ毎日トレーニングか農作業で汗を流すようにしているが、それでも少しずつ体力が衰えてきているのは感じる。これで運動時間がなくなれば、その低下度は怖ろしいほどだ。トレーニング仲間も、「少し(トレーニングを)休むと、今まで出来ていたことが出来なくなる」という人は多い。「体育の時間」以外にも、国語(読書)や芸術(音楽等)、英語(ラジオ英会話)などの時間も一週間の時間割の中に入れるようにしたい。若い時より多く時間をとらないと衰えていくのは当たり前なのだからがんばって時間割を充実したものにしたいが、若い時ほど能力が伸びなくても良いという気もするので、時間割を詰めすぎるのも考え物か。でもやっぱりそこそこの時間割はあった方が良い。
☆昨日で議会が終わって議場がある市役所4階の掃除を同僚と共にしたが、定年後時間割には「掃除の時間」も入れる必要があった。



