ささやま冒険教育

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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.296 ピカピカの1年生(3月18日)

久しぶりに嬉野台生涯教育センターに泊まって二日間のHAP(ひょうご冒険教育)指導を担当した。参加者は1日目は企業のおっさん(20代から50代まで)で、2日目はピカピカの1年生(1名の2年生含)のグループだった。どちらの指導も面白くやりがいがあったが、中でも2日目のピカピカの1年生は想像以上だった。ほとんど1年生ばかりのグループを指導したことがなく(あったかもしれないが忘れてしまっていて)、どんな活動が適しているのか手探りで行った。これは無理と思っていた活動ができたり、これはできるのではないかと思っていた活動が活動にならなかったりしたが、彼ら彼女らの素直さにはやられた。感情のコントロールが大人とは違うので、すぐに泣いたり、「もうやらない」と言ったりするけど、またすぐに笑顔になったり戻ってきて活動に熱中したり、褒めると喜び叱るとシュンとする。言動がストレートで分かりやすく、こちらの指導の成否がすぐに分かる。指導対象としては強敵、指導に気が抜けない。中でも1年生の凄さを思い知ったのがある活動で二人の男子が「もうやらない」と活動から抜けそうになった時だ。ファシリテータードクターとしては直ぐに活動をストップして全員を集めみんなに「どうしたらよいと思う」と問いかけた。すると、数名の女子が手を挙げ「(2人が勝ちを譲らないとしたら)ジャンケンで決めたら良いと思います」と言い、もう一人が「ジャンケンをしたら勝った方は良いけど負けた方に不満が残るので、両方を勝ちにすればいいと思います」と言う。それぞれの提案を二人の男子に意見を聞くと、一人はじゃんけんが良いと言い一人は両方勝ちが良いと言って譲らない。「このまま二人のために班員全員の活動を止めてもいいの」とドクターが問うと、両方勝ちを主張していた一人がしばらく考えてからジャンケンで良いと譲歩し、「よく辛抱して譲った」と他のメンバーから褒められた。譲ってもらった方も複雑な表情だったが何とか活動は再会できた。この間すべての班員が話し合いに参加し、みんな真剣に考えていた。このようなグループでのもめごとの解決パターンは大人でも簡単にはできない。恐るべし1年生。子どもを侮ってはいけない。大人(ドクター)が前日たまたま「小学校低学年でも問題は自分達で解決できる」と書かれた本を読み、問題が起こった時思い付きで話し合いを提案したとは言えなくなった。
 ☆2日間の冒険指導。1日目は大人、2日目はピカピカの1年生。1日目の指導が終わってファシリテーター仲間の女子と写真を撮るドクター。真剣に活動する1年生を前に指導者の大人(ドクター)は活動が終わったら今日はどの女子と写真を撮ろうとばかり考えているとはとても言えない。


Dr.295 妙は虚実の間(3月16日)

地元の公民館で映画を上映した。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀を主人公として本能寺の変に至るまでの心模様を描いた50年以上前の古~い映画だ。映画は古く画面が揺れたりして観るのは大変だったが、内容はとても面白かった。地元の高城山や八上城、城主波多野兄弟も登場して興味深かった。何より面白いと思ったのは明智光秀がなぜ主君の織田信長を討ったのかが地元ならだれもが知っている話(母を人質に差し出し、結果的には信長の意向でその母親が殺されることになった話や秀吉との出世争いがからんでいた話など)を盛り込んで分かりやすく描かれていた点だ。歴史学的には諸説あって史実の裏付けのない話も多くあったらしいが(その辺はドクターも昔日本史教えていた割には歴史に疎いので、どれが史実でどれが虚構かわからないのだが)、映画としては一つのストーリーとして描かれており、観客としては分かりやすく、ドクターなどは「そりゃ信長がむちゃやな。こんなことされたら光秀が怒るのも当然やわな」といたく光秀に感情移入したのだった。史実(事実)かどうかは別として、映画(お話)としては面白く、信長や光秀、秀吉や家康など当時の人物に興味を抱いた。もっとこの辺りの映画が見たい、お話が聞きたい、関連の本も読んでみたいと思った。この時突然大学生時代に空手道部歌として何度も声高らかに歌った『六甲台節』の中にあった「妙は虚実の間(かん)にあり・・・」という一節が頭をよぎった。この歌詞自体は空手の極意を説いているのだと思うが、この「虚実の間」というのは映画の見方更に誇大に言えば人生の生き方そのものにも言えるのではないか。学問的には虚(うそ)か実(事実)かは大切だろうが、一般人の普段の生活(映画を見たり衣食住したりする)にはそんなことはどうでもよく、要は面白いかどうか興味が感じられるかどうかが大事だということだ。かと言って全くの嘘と直ぐに分かることでは興味も引かず、やはりポイントは嘘のようなホント、本当のような嘘の間にあるのだろう。「定年後生活の極意も虚実の間にあり」か。
 ☆新調されたのぼりが立つ会館で行われた映画観賞会。特に役割の無かったドクターはゴー〇被告のような格好で交通整理を行ったが、この日の交通整理員がゴーンだったのかドクターだったのか妙は虚実の間にあり、というまでもなくすぐに分かるか。

Dr.294 またもや油断人生(3月15日)

何事でも最後の方になってもう大丈夫と油断して痛い目に合う「詰めの甘さ」がドクター人生の特徴の一つだが、今回も前回に引き続き会議で油断してて最後が大変だった話だ。小学校区まちづくり協議会の副会長として10数名の役員会の司会をしていたのだが、メンバーは地元の昔から顔見知りの人たちだし、本年度最後の会議で各部から活動のまとめと来年度の目標(と言っても新規のものはなく以前からやっている行事を継続するものばかり)を出してもらってシャンシャンで終わると思っていたが、最後に「その他で何かありませんか」と尋ねた時、来年度の人事について「この件について会長副会長らで話し合ったのか。会長の独断ではないのか」というような意見が出て、それをきっかけにまだ決まっていない来年度の役員人事について長~い話し合いになった。3月のこの時期になってまだ4月からの人事案が決まっていないというのも何だが、そもそもまち協役員の母体になる各自治会の会長がまだ決まっていないところもあるのでやむを得ない事情もある。この辺りは明確には決まっていなくてもおおよそ次の人が読める裏事情に精通した経験豊かなおっさん達の力が頼りになる。表芸だけのドクターの出る幕はない。何やかやの長い談義にお付き合いさせていただき結論の出ないままお開き次回持越しとなったが、田舎の寄り合い、話し合いってこんなもんだ。学校や行政のようには行かないことはだんだんわかってきた。慣れてきた。そういえば最後に痛い目に合う「詰めの甘さ」にも慣れてきたかな。最後はちょっと面倒だが、それまではそんな事態になるとは全く予期していないのだから何の心配もなくお気楽に過ごせる。人生こんなもんか。
 ☆自転車で篠山川を渡っていて何かが降ってきたので空を見上げたら大粒の霰だった。こんな霰のシャワーは滅多にない。霰はやっかいだが面白くもある人生ってこんなもんだ。


Dr.293 現役の憂鬱(3月14日)

委員長をさせてもらっている市の会議に出席した。これまでの議論をまとめて市長に報告する報告書案を最終確認する会議で、細かな字句の修正はあってもシャンシャンで終わるものと高をくくっていたが、これがどっこい細かなことからややこしいことまで多くの意見が出て(中には思い付きの意見を言う人:ドクターまで加わり)、司会をしていたドクターとしては困ってしまった。最後に油断して痛い目に合う詰めの甘さは得意技だ。ただ今回のドクターの困りなどしれたもので、本当に大変なのは出た意見を織り込んだ報告書を短時間で仕上げなければならない担当部局の市職員や管理職だろう。最後の方には「この報告書が今後どのように施策に反映されるか責任を持って見守っていく体制が必要だ」「実際に市長に報告するのは誰なのか(こんなお気楽な委員長が報告するのではとても心配だの意)」等の意見も出て、そういえばドクターも昔職員会議で「そんなことでは困ります」「もっとちゃんとしてください」などとよく文句を言われことを思い出した。昨今このブログでは「定年後の憂鬱」を愚痴ったり、その対処法の発見だなどと言って大騒ぎしているが、現役の憂鬱や大変だったことを忘れていた。思い出は美化されると言う通り、人気者の校長として楽しく生徒達と触れ合ったことばかりを思い出していたが、その当時も波長が合わない生徒や対立した生徒(対立した先生ならさらにその何百倍)、モンスターペアレントなど憂鬱なこともいっぱいあったのだった。現役はやりがいもあるがしんどいこともある。定年は楽にもなるが憂鬱もある。まさに郷土の先輩K合先生が言われように「二つ良いこと、さて無いものさ」の世界だ。今後文案作成に奮闘するであろう職員の皆さんにエールを送りながらも、最終的な責任は負わなくてよい今の境遇の恵まれているところを再認識した自分も捨てたものではないと思った。自画自賛も得意技だ。
 ☆篠山にもこんなすばらしい神社がある。会議前に訪れたが、こんなことならもっと気合を入れてお参りするんだった。でもこのお参りがあったからあの程度で済んだともいえる。委員の皆様の篠山を盛り上げたい、納得の行く報告書を作成したいという気持ちは強く感じた。

Dr.292 達成感(3月13日)

定年後の定職無し生活で空いた時間を埋めて暇をつくらないやり方を研究してきた。ドクター提案のうち最も良いと自分勝手に思うのは、「いろんな流れやご縁で頼まれたことややる流れになったことは引き受けてやってみる」というものだと思うが、これでとりあえずは無為は防げるが、時間を使った後の充実感や達成感が次の課題として出てくることに気付いた。達成感や充実感を得るためには「他人からの好評価」というのか、「人から褒めてもらう」というのが大きい。かつてなら「先生が校長で良かった」「先生は生徒から人気がりますね」みたいな言葉を聞くと、「そんな御世辞を言わんといてくださいよ」って言いながらも内心嬉しかった。人間は他人からの評価を気にする生き物だ。であるとすれば、「定年後充実探し」でも単に時間をつぶすだけでなく(これにしても時間を持て余すよりはずっと良いのだが)、それが他人からの好評化と結びつくものになればなおいい。今後この辺りのことも考えていきたいが、とりあえずは①空いた時間をつくらない、②流れやご縁でやるはめになったことを引き受ける、③引き受けるのが基本だが自分が面白そうだと思うものを優先する、④その引き受けたことが周りからも評価され、自分の充実感や達成感とつながるものであればなお良い、みたいなことまではいえるが、④の充実感や達成感につながる秘訣については今後の課題だ。どなたかここらあたりについて良いお考えがあれば教えてください。
 ☆母から頼まれて畑に肥料を撒いて鍬で耕した。天候の良い日に畑で身体を動かすのは気持ちも良いし運動にもなるし時間もつぶれる。他人からの好評価はないが、これはこれで良いか。

 ☆自転車で村内を移動していると「ごみ捨てるは運捨てる。ゴミ拾うは運拾う」のポスターを発見。この辺りが自己肯定感や達成感と関係するか。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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