Dr.1927 ボチボチ行きます(4月19日)
職場で負担をかけている方に、「大丈夫ですか。何か私に手伝えることはありませんか」と話しかけたら、「ボチボチ行きますから」と答えられた。
このブログを見てもらっているのかどうかは分からないし、「ボチボチ行きましょう」というのは、ドクターの専売特許ではないが、「ボチボチ行きます」を自分で言われたので少し安心した。
「ボチボチ行きます(行きましょう)」は、本当に大変な人にはなかなか、こちらからはかけにくい言葉だ。がんばっている人に、「ボチボチでいいですよ」というのは、何かその人の頑張りにケチをさすようで、「そんなに無理しなくてもいいですよ」といいたいのだが、なかなか外からはかけにくい。
でも、本人が「ボチボチ行きますわ」と言ってくれれば、これは頑張り過ぎを心配しているものにとっては、少しホッとする。無理しすぎなくても良い、出来るところまでしかできない、精一杯やったらそれ以上はできなくても仕方ない、ということをわかってもらえたからこそ、「ボチボチ行きます」と言ってくれたのかなと思う。
あるいは、本人自身が自分自身に言い聞かせるために行っているのかもしれないが、その言い聞かせは意味がある。周りにいるものとしては、少しでも当人の事務的負担を減らすことと心の負担を分かち合えるように努めながら、周りの人にも自分にも本気で「ボチボチ行きましょう」(頑張り過ぎずに、出来る範囲で自分らしくやって行きましょう)の精神を伝えたい。「ボチボチ来ましょう」がより広まることを願って、今日も率先して唱えます。皆様、お疲れ様です。あまり頑張り過ぎずに、ぼちぼち行きましょう。
☆前にも見てもらったウチの通用口横の花。なかなかボチボチ頑張って咲いてます。もとい、頑張ってではなく、ボチボチ自分のペースで咲いてはります。ぼちぼちでも、頑張っているように見えることもあるのかしらん。

Dr.1926 比較的穏やかな日(4月18日)
表面上は比較的穏やかな日だった。こんなに何もなくて良いのだろうかと思うほどで、それはそれで良いのだけれど、夜中にくしゃみと熱で眠れない時間が続いた(原因はホコリか黄砂か分かりませんけど)。穏やかに幸せな時間が続いたからと言って、急に終わることもあるし、今後ずっと穏やかな日が続く保障になることもないことが分かった。
少し悲観的過ぎるかとも思うが、要するに一喜一憂しないで、その日その時間にするべきことに集中するのが良いということだろう。
穏やかに過ぎて幸せを感じる日も、激動でしんどく辛い日もあるということ。あれっ、幸せの「幸」と、辛いの「辛」はよく似ている。今頃気付くのも何だけれど、幸せと辛いは紙一重と言うことを暗示しているような。
今日も出来れば、幸せな穏やかな日がいいけど、激しく辛い日でも、喜び過ぎて油断せず、辛くても落ち込み過ぎて絶望しないように気を付けながら、たんたんと、ご縁と流れを信頼して、感謝と貢献と笑顔を忘れずボチボチ行きましょう。
☆比較的穏やかな時間が過ごせたことに感謝して、笑顔のドクター。自分のするべきこと、やらなければいけないことをやって行きたいと思います。ボチボチですけど。


Dr.1925 ご縁を活かすには(1月17日)
また人前で話をする機会があって、「人生は自分の意思だけで動くのではない。自分の思いを超えた、ご縁や運や大きな意思によるところが大きい。だから、そのご縁を活かすことが大事で、それには感謝と貢献と陽気が大事だ」みたいな話をさせてもらった。
これは今一番ドクターが感じていることで、全くその通りだと思っているし、その思いで日々を生きている。人に話すと、それはまた自分に帰ってくる、人に話したことは自分が実践できていなければならないし、人に言った責任というか、自分で実践できていなくてどうするねんって感じにはなる。
この考えが100%身についていると、日々悩むことはなくなるはずだ。いろいろと心配事や良くないことは起こるが、自分にできる精一杯をやったら、後は大きな意思(流れ)に任すしかないし、流れを信頼しているので良い方向と言うのか、大きな意思の考える方向に進んで行くはずだ。
この通りであれば、何も日々悩むことはないが、まだ心の整えが不十分なのか、大きな意思やご縁を信頼していても、日々悩みや心配事がやってくる。まだまだ修行が足りないと言われているわけで、今後学びを深めていくやりがいはあるともいえる。
ということで、今日もボチボチご縁を信頼し活かす道、歩んで行きたいと思います。皆様ご一緒にボチボチ行きましょう。
☆ウチの通用口横に置かれた鉢から咲きこぼれた花と新緑の美しい風景。いろいろありますけど、自分を生かせしめている大きな意思を信じて、自分のやるべきことをやって行きましょう。


Dr.1924 時間の経過(4月16日)
久しぶりに県教委へ行った。一般的に行政の人事異動は学校現場よりも早い周期なので、多くの人が異動していた。中には何人か顔見知りの人もいて、あの人があの部署にと知って驚いた。特に若い時に出会った人が、課長や副課長や係長らになっていたりして、時の過ぎゆくのを感じる。
20年ほど前に冒険教育施設で一緒だった人が、ある部署の重要な位置についていたり、指導主事の頃を知っている人が、課長や次長や所長になっておられたりもしていた。去年まで冒険教育施設で働いていた人が、これは部署の入り口で頑張っておられた。これからまだ長い県教委生活が始まるのだろう。
こうした人の流れを見ていると、組織の構成メンバーは変わっても、組織そのものは変わらず存続していることが分かる。多分、自分(達)がいなくなっても、組織は続いていく。
そう考えると、寂しいような安心なような、要するに自分(達)はその職にある間、また生きている間はその役割を勤めるが、それが終われば又次の人がその役割を繋いでいく。これは、役所だけでなく、学校でも家庭でも地域でも同じことだ。
自分の生かされている間、精一杯自分の役割を果たす。それを繰り返して人類はここまで来たのだろう。なんか話が大きくなったけれど、大きな視点から考えても、自分が生かされている間、自分のするべきことをたんたんと、出来れば楽しくやっていく。それには、感謝と貢献、陽気さが大事だということも、だんだんしっかりと分かってきている。皆さん、自分の役割を上機嫌に果たしていきましょう。
☆家の庭のすみれも、道路際の山も、みんな今の自分の役割を自然体で演じています。また時間が過ぎれば次の世代が受け継ぐのでしょうけど、今は全力で自分の役割を咲かせています。


Dr.1923 嬉しさを感じる心(4月15日)
昨日は嬉しさを感じることがいくつかあった。一つは、長年ドクターのことを支援してくださっている方が、このブログの記事を見て、息子さんの嬉しい情報も入れて連絡(メール)を頂いたこと。
次は、トラクター燃料キャップの蓋(鍵付き・強化プラスチック)が開かず給油できないので、作業途中で家に帰る途中に近所の方が時間を割いて対応いただいたこと。それでも開かず、農機販売業のおじさんに電話したら駆けつけてくれて、あれこれ試してくれて結果的に蓋は壊れたけど、開けることが出来たこと。最悪の場合は燃料タンク交換(この場合は田植え時期に支障)が考えられたが、回避することが出来、作業も再開できた。
次に、かつての東雲高校時代の教え子が、「先生の好きなお菓子を持ってきました」と家まで、「東京バナナ」を届けてくれた。人生いろいろあるが、元気にいてくれるのが嬉しい。
篠山城跡で行われていた「よさこい祭り」を見に行ったら、知り合いのお父さんが、息子さんと一緒に店を出されていた。その子どもさんのことは、いろいろと聞かされていたので、父と一緒に売り場に立つ元気な姿を見て嬉しかった。
夜にあった村の水利総会でも、水利組合長のドクターは答弁に立ち、いろいろ厳しい意見はあったものの、擁護の弁論もあり、何とかご理解を頂き、原案が通ったこと。これからしっかりやって行かなければなりませんけど。
なんやかんやで、こんな風に一日(人生)の中には嬉しいことがいっぱい散りばっています。大事なのはそれを感じる心ですね。皆様、今日も自分の身の回りにきっとあるはずの、嬉しさを感じる心を発揮していきましょう。もちろん、ボチボチで、今日見つからんかっても焦ららなくていいですけどね。



