Dr.164 退職者の典型(10月12日)
用事があって久しぶりに昼間市立図書館へ行ったら、そこでいつもよくトレーニングセンターで見かけるおっさんを見かけた。その人とはよくトレセンに行く時間が重なるのだが、話しかけてもあまり乗ってくるタイプではないのでいつしか会釈だけの関係になっている。ある日、その人を知っている人に聞いてみると数年前に郵便局を退職された方だということが分かった。1週間に何度も見かけるのにその程度の事さへ本人からは聞けなかったということだ。その退職おっさんが日中、図書館で過ごしている。ある本に(やることのない、元気のない)退職男性の典型的な過ごし方は、図書館とジムだというようなことが書いてあった。図書館とジム(この辺ではスポセン)は悪くないと思うが、毎日となると退屈かもしれない。その方の元気のなさ(かと言ってほとんど毎日トレーニングするのだから体力的な問題ではない)も気になるが、よく考えてみると、ドクター自身もその人と同じような行動パターンをしているからその人によく出会うのだ。ドクターも知ってる人とはよく話すが、知らない人にどんどん話しかけるタイプではない。冒険指導中や自撮り写真の前では笑顔だが、普段はそれほどでもない。あれれっ、これではまったくその人と同じではないか。もしかしたらそのおっさんは鏡に映った自分かもしれない。今後はそのおっさんとおっさんの行動パターンを肯定的に見るようにして、笑顔で話しかけるようにしたいが、多分反応は大して期待できないだろう。やはり退職後のおっさんの生活は難しい。
☆百姓仕事がある分、そのおっさんよりはやることがあって良かったが、自撮りタイマー設定時間を間違えて、構えていない時の自分はこんな感じで笑顔無し作業をしていた。もしかしたらそのおっさんも陰で百姓をしているかもしれない。
☆これがタイマーの設定時間が合った営業用の笑顔だ。定年後おっさんの苦悩はともかく、丹波黒枝豆いりませんか。
Dr.163 まだら忘れ(10月11日)
背広の上着をどこかへ置き忘れてきてしまった。プチ旅先からブログ更新予定だったのにカメラからパソコンへの入力コードを家に忘れてきてしまった(ので昨日の更新が出来ずすみません)。市役所へ印鑑証明をもらいに行って印鑑証明カードが要ることを忘れていて取りに帰った。他にも忘れ物はいくらでもあるが思い出せないぐらいだ。かと思うと覚えていることもある(名前、家への帰り方、ブログの更新、他にもあるが思い出せない)。こういう状態を一般には「まだらボケ」とかいうかもしれないが、「ボケ」という響きは良くないので「まだら忘れ」と呼びたい。そしてこの「まだら忘れ」を肯定的にとらえたい。自分の陥っている状態を悲観的にとらえるのは良くないからだ。「まだら忘れ」でも致命的な支障がない限り、年齢に伴ってこの状態になるのは誰にもあることで、かえって煩わしいことも忘れてお気楽に生きられるから高齢者や定年退職者には都合がいいと捉えるのだ。「まだら忘れ」が進んで全く何も分からなくなれば、それはそれで当人にとっては何も問題はない(というより問題かどうかも分からない)だろう。周囲は困るかもしれないが当人も好きでなっているのでないから仕方がない。やがては誰もが通る道だし、本人が幸せそうでニコニコしている(自信はないが)のだからおおらかな態度で接してほしい。これだけ頼んでおけば後は安心だが、問題は自分に都合の悪いことだけ忘れられるようになれるかどうかだ。こんなせこいことを心配しているような奴は大往生(大忘れ)には当分なれないか。
☆こんな旅空ショットを更新するはずだったが、カメラの接続コードを忘れてできなかった。
☆帰ってきてからは明日の黒豆太枝切はさみの修理を思い出しJAの農機具センターへ行ったら、農業大学校出の彼女が見事に直してくれた。早速ツーショット写真を撮ることは忘れなかった。幸先の良い「まだら忘れ」への道だ。
Dr.162 追い求めてはいけない(10月9日)
日本人のノーベル賞受賞の先生が、「とことん疑問に思ったことを追い求める」みたいなことを言っていた気がする。気がするだけでいいなら、「夢をあきらめるな」「努力は裏切らない」みたいなことも言っていたかもしれないとも付け足したい。その先生でなくても、この種の言葉は「先生」と呼ばれる人なら誰かがどこかできっと子どもたちに言っているはずだ。これらの熱い言葉は、まだ若い子ども達や一部の才能のある人には言ってもいいが、普通の中高年がこの手の言葉を真に受けて、何かにとことん打ち込み始めるのは要注意だ。特に定年後の人が、「定年後の充実した生き方」や「孤独の癒し方」みたいなテーマをとことん極めようとするのは危険である。底なしの泥沼にはまり込む恐れがある。ドクターがお勧めするのは、何事も追い求めるのはほどほどにして、雑事ややらなければならなくなったこと(妻からの指示等)でバタバタと過ごし、気が付けばもうこんなに生きていたというのが良い。「生き方等を追い求めすぎないほうが健康な生き方ができる」もどこかの精神科の先生が言っていたような気がする。このように世間にはどのようなことも誰かがどこかで言っている(ような気がする)、大事なのはそこから自分に合ったのをえらぶこと(のような気がする)。というわけで、またプチ旅に出ます。
☆自撮りばかりも何なので、たまには秋の風情の方が良い(ような気がしました)。
Dr.161 自撮りをする人(10月8日)
ある本に、自撮りをする人は自己顕示欲や自己承認欲求が強く、アクセス数や「いいね」の数を非常に気にするとあった。こ・こ・これはドクターのことではないか。というより、ドクターのことを良く知っている人が、この本を書いたのではないかと思われるほど、書かれていることは自分に当たっている。自撮りをする人は自己愛が強く、自分に万能感を持つことが多いが、その割には現実社会では大した評価を得られていないので、ネットの世界でその欲求不満を晴らしているのだという。な・な・何なんだ、この冷静な分析は。当たっていると思われるだけに癪にさわる。自己愛は自己肯定感とは違うのか、自己愛というとマイナスイメージだが自己肯定感だと言えばプラスイメージで高い方が良いという感じがするではないか。著者に聞いてみたい気がするが、多分微妙な違いがあるのだろう。そんなに深く考えないで自撮り写真を載せていたが、この本のお陰で、自撮りをしたがる背景が分析できた。自分の行動の訳が分かって良かったが、問題は「だからどうしろというのか」ということだ。恐らく自己顕示欲も自己承認欲求もほどほどにせよということだろうが、次の問題は「どうしたらそれができるのか」ということだ。結局は「自分で考えろ」ということになるのだろう。やはり「お気楽な生き方」道を自分で探るしかない。これまでと同じような気もするが、読書の秋にふさわしい読書がができて良かった。
☆自撮りをしたがる人、ドクター。一応、黒豆や栗の季節になったことを知らせる絵(意図)だが、言われてみると自分が写っている必要はないか。
☆「自撮りをしたがる人は何枚もよく見える構図を探して自撮りする」とあったが、これも当たっている。どひゃー。
Dr.160 人生観が変わる(10月7日)
かつてのトレセントレーナーで現在は斎場に勤める方が、斎場で多くの方のお葬式を担当して「人生観が変わりました」と言われた。30代40代で亡くなる方もおられ、人生いつ終わるか分からないという思いを強くしたとおっしゃる。「だから、したいことはできるうちにやっておくことが大事だと痛感した」と言われるので、「あなたのやりたいことは何ですか」と尋ねると、「おいしいものを食べることと未だ行っていないところへ旅行することだ」と言う。やりたいことが「食事」と「旅行」というのはいかにも平凡なように思うが、これらは多くの人に共通する大事な人生充実要素かもしれない。また、K中学校冒険指導が終わった後、遠方から来ている指導者の方々と話してると、定年後に冒険指導をやっているドクターと違い、彼らは冒険指導を中心として生活してきて、それだけでは食っていけない時は副業やアルバイトをやってきたという。「冒険指導の仕事があればそれでいいし、無ければアルバイトをするだけだ」と不安定な生計にあまり不安はなさそうだった。失礼ながら金銭的にはそんな余裕がなさそうなのに、移動中素敵な場所があるとキャンプ用の椅子と湯沸かし器でコーヒーを楽しむなど、心の余裕がある。移動中適当な場所があると近くの公衆トイレで慌ただしく着替えてランニングを済まし、子ども達の送迎など家事のため家路を急ぐドクターとは大違いだ。でもそんな彼らが「校長退職後、好きな冒険指導をちょこっとだけやって暮らすドクターは余裕があっていいですね」という。他人の芝生は青いということか。冷静に考えてみると誰の暮らしにも、好きなことにお金と時間を使う余裕の部分と必要に迫られた仕事や家事や介護などのバタバタした部分が同居しているのではないか。ともかく、いろんな人の生き方や考え方に接し自分の狭い人生観を変えていくとは良いことのようだ。で、やっぱりここで「流れに任せてこだわらないお気楽な生き方」が自分には最適のように思えてくる。
☆久しぶりのK中学校冒険指導。やることはいつものブラインドウォークとジョージ写真集。いつもの生活も見方を変えれば(価値観を変えれば)、素晴らしさや有難さが見えてくる。生徒の中にもそういっていた子がいた。やはり生徒から学ぶことは多い。