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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.456 デッドリフト(9月21日)

スポーツセンターのトレーニング室でかつての教え子に出会った。20代の彼は地元企業に就職し、時々トレーニング室で出会う。彼が昨日歓声を上げていたのが、デッドリフト(床に置いたバーベルをただ腰まで持ち上げる運動)で145㎏を上げた時だった。これまで何度か挑戦して、もう少しで残念していたらしい。昨日はコンディションが良く、先輩も見守る中で145㎏が上げられたということで、ものすごく喜んでいた。ドクターは自分がいた学校で学び、卒業後も地元企業で頑張っている彼と時々ジムで言葉を交わすのを楽しみにしているが、正直145㎏がどれほどすごいのか、バーベルが上がって何故これほど喜ぶのかは理解できない。でも、彼がトレーニングに打ち込んでいて、自分の打ち込む世界で自分の満足できる成果が出せたので喜んでいるのは分かる。誰にも自分の大切にしている世界があり、その世界で満足できる成果が出た時嬉しいのは分かるし、そういう世界を持っていることが生きる励みになるので大事なことだということもよく分かる。そんな世界を持っている人は幸せだ。妻は関東にいる息子の小汚い下宿に泊まりに行くのが楽しみらしいし、歴史好きは暑い日でも急な山道を登って山城跡を巡るのが楽しみらしい。今回のレッドリフトと同じく他の人には分からない世界だ。他の人には分からなくても、自分が楽しみにする世界、打ち込む世界がある人は良い。問題はドクターのように特にそれほど打ち込む世界がなかったり、束の間あったと思っても直ぐに飽きてしまう人だが、これもドクターの言うように打ち込む世界は無理に探さなくても成り行きで見つかるものだと鷹揚に構えているのが良い。見つからなかったとしても、それはそれで生きていける。
 ☆市民文化祭の書道展示。書道の世界で生きている人には奥が深い世界だと思う。市民文化祭では他にも華道に茶道に絵画・写真・編み物・陶芸などいろんな打ち込む世界が揃っているが、ドクターの打ち込む世界はまだ模索中だ。嫌な予感がするのだが、もしかしたら人生の打ち込む世界を探すのがドクターの生きがいかもしれない。

Dr.455 昔取った杵柄(9月20日)

久しぶりにバドミントンと卓球をやった。卓球は昔我が家に卓球台があって家族で打ったことがあり、その後現職時代に時々卓球部の連中とやらせてもらった(遊んでもらっていた)。バドミントンは初任校時代に初任仲間とやっていた。どちらも大してうまくないが、やったことがない人よりは少しだけましという程度だ。今回久しぶりだったが、身体が覚えているのか少しはそれらしい動きが出来た。昔の技量が残っていることを「昔取った杵柄(きねづか)」と言うらしいが、本物の餅つきもやったことがあるので、杵柄も今でもできるかもしれない。加齢とともにできないことや忘れることが多くなったが、杵柄技量のように体が覚えていることは結構残っていることが分かって、ちょっと自分(正確には自分の身体)を見直した。「見直した」とは失礼な言い方で、結構自分の身体さんはがんばっていらっしゃる(急に丁寧になってしまいましたが)。身体さんが頑張ってくれているお陰で、毎日快調に過ごせているのだ。精神(心)さんも定年後生活にあった心の持ち方を身に着けようとがんばっていらしゃる。後は身体と精神の持ち主である自分さんが現役時代とは違う生活の仕方に慣れることさへできれば絶好調定年生活が送れるはずだが、それにはもうちょっと時間が掛りそう。がんばれ自分さん。
 ☆思わぬところに栗が落ちていて「びっくり」。昔取った駄洒落柄も健在だ。

Dr.454 健康は手段か目的か(9月19日)

定年後に必要なものとして、①生活費、②健康、③生きがい、という人がいる。また、別の人はこの説に納得しながらも、健康はあくまでも何かを達成するための手段であって、それを定年後人生の目的にするのはおかしいと言われる。その人は③の生きがいを持ってバリバリ講演や著作活動に励んでおられるので、健康はあくまでも③生きがいを達成するための手段であることを忘れてはいけないと言われるのは分かるが、特にこれといった生きがいがなく生きている人にとっては、毎日を元気よく特別な痛みやケアがなく送れることを目標・生きがいにすることもありではないかと思う。生きがいはあるにこしたことはないし、「生きがいある人生」って格好いいとは思うが、生きがいがあろうとなかろうと寿命までは生きねばならないのだし、死んでしまえば同じような気もする。そりゃ生きがいがあった方が活き活き生きられて良いと思うので、生きがいがある人にわざわざそれを捨てろとは言わないが、問題は生きがいは欲しいけど見つからない人だ。生きがいが必要だからと、無理にこれが生きがいだと思い込もうとしてもやはり無理がある。それに生きがいってその時は分からなくても、後から振り返ってあの頃はあれが生きがいだったんだなって分かることもあるように思う。今これと言った生きがいが見つからなくても、とりあえず健康に毎日を過ごすことを目標に生きて行こう。こっれって健康が生きがいっていうんですよね。
 ☆特に生きがいは無くても、元気に動き回れて、村の人の稲刈りや村に沈む夕日や自分の黒豆畑を見て回り、黒豆のさやが結構大きくなったのを見つけた時って幸せを感じます。by Doctor

Dr.453 来年は良い年やで(9月18日)

今年の稲刈りは田んぼがぬかるんでいて、コンバイン(稲刈り機)が思うように動かずどの農家も苦労されている。勿論、軟弱農家のドクターも率先して苦労した。そんな中、村の人と話していると一人の人が、「今年は大変やったけど、来年は良い年やで。百姓の知恵や」とおっしゃった。これまでの経験から同じような気象状況が連続することはないから言われているのかと思ったらそうではなくて、何の根拠もないけど調子の悪い年が毎年続くかもしれないと思ったらしんどくてやっていけないので、次の年は良い年になると信じ込むのだという。わざと楽天的に考えて精神の安定を図るということが百姓の知恵だという。その人は夜寝るときにも「今日も一日いろいろあったけど、こうして布団に入って寝ることが出来る。明日はきっと良い日になるぞ」と思って休み、朝起きた時には「今日もきっと良い日になる」と思って1日を始められるという。定年後に子どもも巣立っていれば、毎日の生活は贅沢をしなければ何とかなる。ワゴンタイプの軽自動車で寝泊まりしながら、自分の興味のある土地を旅したりするとも言われる。意識的な楽天思考といい、趣味を生かした生活といい、身近なところに定年後生活の達人がいた。見習うべきところは見習いながら、ドクター流の過ごし方を見つけたい。道はもう少しのような気もするし、遥か先のような気もする。ぼつぼつ行くしかない。
 ☆快適な定年後生活に思いを巡らしながらも、とりあえずは今日しなければならないことをするということで、収穫したコメを農協まで運びました。結構幸せかも。

Dr.452 季節を感じる(9月17日)

普段は定年後充実生活のセオリー通り「きょういく」で、今日行くところを作るために今日の用事を埋め込み今日が何月なのか何曜日なのかもあまり意識することなくバタバタ過ごしているので、季節や時間の経過を感じることはないが、時折何かの折に季節や時間の経過を感じることがある。最近では、中秋の名月や秋の運動会、村総代10年間ご苦労様会などだ。中秋の名月の翌日の満月を見てもう秋なのかと感じ、中学校の運動会に来賓参加してやはり熱いけど秋だよなと感じた。5期10年間村の総代を勤められたTさんのご苦労様会に参加し、Tさんにはいろいろお世話になった、自分も村や地域の役に関わって10年にはなるのか等と時間の経過に思いを馳せた。村の人はみんな顔見知りで相対的な年齢差やそこから来る序列は変わらないので時間が止まったようだが、かつてはその場にいたあの人・この人がいなくなられているのに絶対的な時間の経過を感じる。代々受け継がれてきた村の役を自分達も担わなければならないとは感じるが、それぞれ担う役が違う。お調子お気楽者のドクターにはどういう役が回ってくるのかは分からないが、季節の移り変わりのように自分の季節には自分の役を無理ない範囲で演じよう。
 ☆生徒数は減ったが、昔と変わらぬ中学生の元気な姿をテントの中から眺めながら、季節と自分が過ごしてきた年月を感じた束の間だった。その後はまたバタバタ季節感曜日感なし日常が続いている。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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