Dr.480 ゆる~い性格(10月18日)
いつも市民センターのトイレを掃除してくださる掃除のおばちゃまと何度もトイレで一緒になり(男子トイレ前の水道のところで、向こうは清掃作業、こちらはトイレ利用者として)、ドクターが「このごろ大も小も筋肉が緩んだのか、トイレへ行く回数が増えて困ってます」と言うと、おばちゃまが「ゆるいのは性格だけにしといてくださいよ」とおっしゃった。このおばちゃまはドクターと何度か話をしていて、ドクターがアバウトかつだいたいで生きるゆる~い性格であることをお見通しで、ゆる~い性格はいいが、身体が緩んでトイレが頻繁になったりするのは心配だということで、ドクターの健康を気遣って言ってくださったのだ。ドクターのお尻や膀胱の筋肉のゆるみは置いとくとして、ゆる~い性格を評価してもらったのが嬉しかった。長く生きていろんな経験を積んで来ると、人間そう理想・理屈通りには生きられないことが分かり、自分にも周りの人にもゆる~く接する方が生き易いことが分かってくるのだ。人それぞれなので、きつ~い人やかた~い人も必要だし、自分がその生き方で良ければ他人がとやかく言うことはないが、自分がきつくてもゆるくても良いように、他人のきつさ・緩さにも寛容であってほしい。特に自分がそうだから言うのだが、ゆる~い性格の人の存在を認めてほしい。よく人は自分と違う性格や
自分が嫌いなタイプの人を批判しがちだが、それでは世の中生きにくい。生き方の多様性を認めて、どんなタイプの人ともゆる~く付き合えるようになってほしいと、ゆる~い派を代表してお願いしたい。
☆ゆる~い性格代表でゆる~い着こなしのドクター。こういう人にはきつ~い奥様がついて丁度良い。

Dr.479 職務からの解放(10月17日)
昨日はほぼ黒枝豆取りやその配達で1日が終わったが、ふと一日中誰からも連絡(電話・メール等)がないことに気が付いた。校長の時には休みの日でもほぼ毎日のように何かしらの連絡があったことと比べると雲泥の差だ。誰からもどこからも連絡がないというのは気楽でいいが、何か自分が世間から忘れられているような、世の中に自分は必要ないような感じがして、若干寂しい気もする。方々からいろんな連絡や相談があった現役の時は、それはそれで忙しく、気苦労が絶えなかったので、たまには職務から解放されたいなどと思うこともあったことを思うと、つくづく人間って勝手なものだ。どこからも連絡がないのを職務からの解放と考えて、自分の生活に専念すれば良いのだが、話はそう単純ではない。現役で忙しい生活を送られている方には、忙しくって大変でしょうけど、それは自分が必要とされているということですし、今しか経験できないことですから、今の間にその多忙な中での充実感をしっかり味わっておいてくださいと言いたいし、どこからも連絡がないと気を落としている定年後生活者の方には、それは職務からの解放ということで、長年夢見ていた生活なので、今後は前職を懐かしがるのではなく、職から解放された今の生活の良さを堪能すべきですと言いたい。後半は自分に言い聞かせてますけど。
☆豆配りの途中で見た奇麗な景色。職務から解放された今だから味わえる楽しみだ。


Dr.478 ソフトの価値(10月16日)
「ソフトのかち」と言っても、ソフトボールでドクターチームが勝ったのでも、ソフトクリーム屋『野勝』の話でもない。日本では目に見えるハード(物等)は評価されやすいが、目に見えにくいソフト(技術等)は評価されにくいのではないかという話題だ。このことは市や県から頼まれて地域づくり、地域の活性化に有料で取り組んでいる法人をやっている人と話をしていて気が付いた。地域振興や地域の活性化の必要性は誰もが思っているが、現在これに取り組んでいるのは輪番などで自治会等の役員になった人やボランティアの人が多い。地域起こし協力隊というお金をもらいながら地域起こしに取り組む制度もあるにはあるがまだ少数だ。でも本来は地域の有形無形の資源や人を結び付けて、どういう形で活性化し発信していくのかと言う知識・技術・経験・能力(ソフトパワー)は価値の高いもので、それに携わる人はそれ相応の報酬を受け取るべきだ。こういう大事な仕事・役目をいつまでも、個人の善意ややる気だけにたよっていたのでは長続きしない。これと同じことがドクターのいる冒険教育の世界でも言える。冒険指導者は昔では野外活動指導者等と呼ばれ、そういうのが好きなおっちゃん・おばさんがボランティアか交通費程度でやるというのが多かった。それでは他の仕事と掛け持ちとなり、指導者のレベルも向上しないし、どうせこれ(冒険指導等)で食っているのではないという意識は指導力向上の妨げとなる。ようやく日本も地域起こしや冒険指導等のソフト(腕)にお金を払い始めたように思うが、今後もっともっとこれらのソフト(パワー)の価値を認めて、それに携わっている人が十分食っていけるだけの代価がもらえるようにならなければならない。出来ればドクターが冒険業界にいるうちに。
☆昨日の美しい夕陽を写真に収める技術や毎日駄文を綴るソフト能力の価値を、自分では評価しているが、できれば世間にも気づいてほしい。ドクターのためだけじゃなく、ソフトの価値が適切に評価される社会になるために。


Dr.477 老人力(10月15日)
『上機嫌力』『お気楽力』『飽きる力』『まあいいか力』『こだわらない力』などオリジナルなものからパクリのものまで、これまでにもいろいろな力の大切さを主張してきたが、今回新たに『老人力』というのを知った。詳しい中身は提唱者でないので分からないが、ドクターがこれまで説いてきた「つきつめない」「だいたいで手を打つ」「物を忘れる」「許す」「妥協する」などの歳がいってくると誰にも起こる変化(老化)を肯定的にとらえたもののようだ。このように本来マイナスなイメージかさして振り向かれないものに、『〇〇力』などと命名して肯定的に捉えるやり方は最近多く、若干食傷気味かもしれないが、考え方としては悪くないと思っている(『開き直る力』『それがどうした力』の発揮)。要するに何事にも両面あるし、加齢とともに起こってどうせ抗えないのなら、肯定的に受け入れる方が良いということだ。大事なのは無理に思い込むのではなく、洒落で楽しんで使っているうちに、この力って本当に役に立つやんと納得することだ。これができれば、定年後であろうとなかろうと、前期高齢者であろうと後期高齢者であろうと人生を楽しむことができる。老人力であろう『〇〇力』であろうと、それを唱えることで元気が出ればそれでいいじゃないですか。『終わり良ければ総て良し力』
☆高校剣道部の同級生と黒豆バーベキューをやった。『生きてるといろいろあるけど、時々楽しいことがあるから人生捨てたものではない力』を感じた。この力は、ちょっと長くてはやらないか。


Dr.476 毎日がイベント(10月14日)
昨日の日曜日はどこへもでかけず、家で黒枝豆取りをして午後にやってきた友人に持って帰ってもらった。何と言うことのない農家の日常だが、午前中に母と妹と3人で昔のことや今の事やこれからのことをあれこれしゃべりながら、豆をとるのはとても幸せな時間で、後からこれは一つの大イベントではなかったかと気が付いた。結構高齢になってきたけど子どもたちよりも早く豆をとるほど元気な母親がいて、近くに住む妹が家の用事がいろいろある中、半日豆とりに付き合ってくれて、だいぶ老人力がついてきたとはいえ身体のどこも痛くないことだけが取り柄のドクターがべらべらしゃべりながら作業する。こんな穏やかな時間は今後そう何回もあることではないことに思い至ったのだ。イベントって旅行や祭りのような非日常の行事を言うことが多いが、普段の何気ない日常の中にもかけがえのない時間・出来事はいっぱい潜んでいる。この小さな幸せに気付かないと取り返しがつかない。日々の日常に潜む掛け替え・取り返しのつかない貴重な瞬間・出来事を見逃さないためにも、これからは「毎日がイベント」っていう感じで行こうと思う。さて、今日のイベントは何だっけ。大イベントの陰に隠れたプチイベントこそ大切にしたい。
☆こんな感じで家族豆取りイベントをやりました。午後からは妻も手伝ってくれましたが、写真はドクター以外はNGです。


