Dr.544 年末恒例行事(12月29日)
大掃除やら新年の準備やらの年末恒例行事をやってると、今年も年の瀬が近づいたなという気持ちになる。この頃の自称朝ランニング(他称ウォーキング)中も会社へ行く人の車と出会うこともなく全く一人で今年にあった出来事を思い出しながら走るというのもいつもの年末の恒例行事だ。ずっと流れる時間に、恒例行事や季節の移り目等によって節目があるのはいいことだ。これまでの自分を振り返りこれからの自分に思いを馳せる契機となる。ただ去年今年を振り返っても大した進歩がなく、加齢による体力の低下や心身の変化があるだけというのも情けない気がするが、まだこうして元気に掃除や運動ができて家族も元気だと言うだけでもありがたいことだとも思い直す。このように心に不安を感じる時と調子のよい時が交錯するのも、年の瀬だけに限らないいつものことだ。こうして齢は行くが心は一向に成熟しない、残念でもあるけど将来の目標があると言えばいえる。結局こうした一進一退を続けながらボツボツ行くのがドクターの人生と言うことらしいが、きっと来年こそは永続的な悟りをつかんでやるぞ。あれっ、これも去年の年末に誓った気がする。
☆当番の村の集会場の掃除をしながら、そこに掛かっている30年ほど前の集会場竣工記念写真に写る自分の姿(後列右から2番目)を見てあんまり進歩がないこの30年を振り返る。この写真をブログに載せること自体前にもやったような気がする。変わり映えしないおっさんドクター。


Dr.543 果報なことよなあ(12月27日)
先日知人が長い間放置されていたお茶畑の整備をボランティア仲間と手伝った時に、その地域の人が畑の持ち主の年配女性に言った言葉として教えてくれたのが「(若いボランティアに自分の畑の整備をしてもらえるなんて、なんてあなたは)果報なことよな」という言葉だ。「あなたは恵まれている。良かったね」という意味だと思うが、言われる方はもちろん嬉しいし、言う方の人も他人の良かった点にスポットを当てその人を元気づける発言が出来るということで素晴らしいと思う。この言葉自体もいい響きだし、これからはドクターも他人だけでなく自分にもこの「果報なことよなあ」をどんどん使って行きたい。人はともすると自分や他人の欠点や恵まれていない点ばかりに目が行きがちだが、欠点やマイナス面の指摘は言われた方の元気とやる気をなくすだけだ。中には自分の欠点を指摘され発奮や感謝する人もいるかもしれないから、そういう人には欠点指摘もいいかもしれないが、少なくともドクターには適用しないでほしい。それよか今回学んだ「果報なことよなあ」や「ドクターは癒しやは(ドクターは卑しいではない)」の方がグンと元気が出るのでこちらをお願いしたい。人にお願いするだけでなく、自分もどんどん人の良い所を見つけ、その人が元気が出るような言葉をかけていきたい。こんな拙いドクターブログを読んでくださるみなさん、皆さんがおられるから毎日自分の思いを発信できています、「(なんて自分は)果報なことよなあ」。って言っておきながら、今晩は数少ない友人との飲み会のため神戸に泊まりますので明日の発信は休まさせていただきます。「勝手なことよなあ」
☆冬休みで帰省している息子にホームグランドの冒険施設を見せて、父のやっている冒険教育について熱く語った。「果報なことよなあ」

Dr.542 一陽来復(12月26日)
冬至を境にだんだんと日が長くなるように、衰えかけていたものがまた回復軌道にのることを「一陽来復(いちようらいふく)」と言うらしい。衰えていたものが調子よく回復するのは良いことなので一陽来復は元気が出る思考というのか表現だが、回復した日の長さや運気はまた衰えていくわけだから、人生や運気も季節や日の長さのように循環し、良い時もあれば悪い時もあるということだろう。また一陽来復やその反対の過程でも、その中身を詳細に見ると一直線に同じ傾向が続くということではないよいうに思う。来復中でもデコボコはあるのではないか。全体としては来復過程にあっても、日によってあるいは時によっては調子の悪い時もあるのが人生の一陽来復だ。ドクターの定年後生活も調子のよい時もあれば、落ち込むときもある。もう吹っ切れたと思っていても、やはりずっとは調子よく行ききれない。これがなかなかやっかいだが、年を経て経験を重ねた分、その落ち込みを少なくはしたい。それだけの学びを溜てきたように思うが、そう簡単にいかにのが人生だ。いったいいつになったら、継続的な「一陽来復」過程に入れるだろうかと思うが分からない。修行は続く。
☆写真の木々も若葉・繁茂・落葉を繰り返す。

Dr.541 没我の境地(12月25日)
いつも聞くFMラジオでギターデュオゴンチチの松村さんが「ギターを上手く弾こうとか思うのではなく、音楽を信頼して、自分もその一員としてそこに加わる。つまり没我が自分のスタイルで音楽を長くやってこられた秘訣」みたいなことを話されていた。そういえばかつてやっていた狂言でも台本を信頼して変に笑わせてやろうなどと思わず、素直にそのままやるのが大切と習った。変に我を出すとわざとらしく長続きしないということか。無理に我を出さなくても、自然とその人らしさがにじみ出てくる。これはドクターの冒険指導、もっと言うと生き方にも当てはまるのではないかとピンときた。自然体でやるべきこと、やる流れになったことをやっていても、ドクターらしさが出てくるのではないか。これまでを振り返っても、自分らしさをもう一つ出せていないと思っていた教頭時代や副所長時代でさへ、当時の人は「丹後さんがいると場が和む」と言ってくれる。「人生は没我で良い」ということになると、これからの人生は楽だ。自分らしく生きるにはどうしたらよいか、自分の人生における使命は、などと気張らず毎日をたんたんと没我で送ればよい。でもこれは「いつまでも夢や希望を忘れずそれに向かって燃えて生きる」派の生き方とは違うように思うが、さてどちらが正しいのだろうか。あっ、没我派はそんなことに悩まないのだった。やはりドクターは一つの(生き方)派には徹しきれない優柔不断派かもしれない。
☆ドクターは毎日運動を欠かさない元気なスポーツ派だが、これにも徹しきれず体力は確実に衰えていて、またそれが気になる憂い派でもある。

Dr.540 神は細部に宿る(12月24日)
何度かこのブログで取り上げたと思うが(本当は取り上げたかどうかも覚えていないが、記憶力がめきめき低下してきている今となってはこの表現が便利。今のところそれはまだ覚えているようだ)、モノの本質は小さいこと(ディテール)に出るということを「神は細部に宿る」と言う(と思う)。この間、村の忘年会があったが、集会場で鍋をした後で、ある人が持参した生牡蠣を焼いて食べようという時にこの原則が見られた。生牡蠣は中るかもしれないと食べるのを躊躇する人は普段の生活でも慎重な人だし、大丈夫大丈夫と生焼けでもどんどん食べる人は日常生活でもお気楽で思い切ったことをやる人だ。率先して焼く役をしてくれた人はマメな人だし、それをみんなに配る役をしてくれた人は普段でも世話をよく焼いてくれる人だ。ドクターといえば、焼く網の側にはいたが特に何もせず、牡蠣は食べたいけれどもあたったら嫌だしとしり込みしながらみんなの様子を伺い、大丈夫そうだと分かった後で、上手く焼けたそうな牡蠣を選んで食べたけど半生で、行きがかり上食べたけど後でいつお腹が痛くなるかもしれないと心配するという何とも情けない行動をとった。でもようく考えると、この生ガキ食に見られた行動は自分の本質をよく表している。心配性でいっけん慎重だが、慎重に徹しきれず雑で軽率な行動をとって後で後悔するということはこれまでにもいろんな場面で体験済みだ。「神は細部に宿る」の原則は正しいことを再確認したので、これからは日常の些細な行動から自分の本質をつかみ、自分の本質をかみしめながら生きて行きたい。「自分の本質を変えたければ細部から変える」「習慣を変えれば本質が変わる」という言葉も知っているが、「人間の本質(本性)はそう簡単には変わらない」のはこれまでの人生で体験済みなので、「人生なるようにしかならない」「流れに従って生きる」やっぱりこちらで生きたい。
☆この間もらったクリスマスグッズ着けてみたけど、自宅の前で一人っちゅうのは寂しいやろ、これも「友達少なくて寂しがりやけど、ちょっとおもろいことしたい」ドクターの本質(神)がよく出ている。


