Dr.222 物事をあるがままに(12月17日)
日々を上機嫌に生きるコツの一つに「物事をあるがままに見てやりすごす」というのがある。物事や出来事自体は何の意味も持っておらず、それを私達がプラスやマイナスに解釈するから、その解釈によって自分が影響される。「プラス思考が良い」「マイナス思考をやめよう」などと言われるが、その上の境地がこの「物事をあるがまにやり過ごす」だ。例えば急に約束していた会合が中止になった場合には、これは「自分が先方に嫌われているのではないか」「中止になったおかげで別のことが出来て却って良かった」などと変な解釈をせず、諸事情により中止になったそれだけのこと捉え、「だからその次どうするのか」を冷静に考えるのが良い。また、パソコンがウィルスに感染した場合なども、「大事なデーターが失われてしまう」「今後迷惑メールが来たらどうしよう」などと心配を膨らませるのではなく、パソコンを再起動してできる修復をやってみる、それでなければパソコン業者に修理を依頼する、直らなければ買い替えるなどとその都度の事態に冷静にベストの対応をしていくだけだ。書いているうちにより自信を深めてきたが、この「物事をあるがままにやりすごす」観点がマスターできれば、何事にも動ずることなく平穏快適に生きていける。残念なのはドクターにはまだその修業が完成していないことだが、これもだったらさらに修業を積むだけと言うことになる。
☆最後の黒豆の選別作業。最後にこの豆の水分量をはかる。水分量が19%以上なら出荷できないので、水分計を前に神頼みするドクター。結果は18.4%で何とかセーフだったが、これも修業が完成していれば神頼みなどせず、平然と19%未満なら出荷、19%以上なら再乾燥するだけのこととなるのだが。
Dr.221 やんちゃが好き(12月15日)
預金の相談にJAの金融部門に行くと(これまで預金とは縁遠かったが、退職1年未満の今だけ各種金融機関から退職金目当てのお誘いが来る)、支店の方が小学校の時に地域でバレーボールを指導していた子どもがドクターがいた三田S高校に入って活躍させていただいたという話をしに来られた。お互いに知っているその子やその子の周辺の子や保護者の方などの話で盛り上がった。ドクターとしては自分が活き活き仕事をしていた校長時代のことを話題にできるのは楽しかった(それだけ退職後の今が活き活きしていないということかもしれないが)。その話の中で「あの子はやんちゃやった。でも私はやんちゃが好きだ」「私もヤンチャが好きです」ということでまた意見が一致して盛り上がった。やんちゃな子との付き合いは実際には大変なこともあるが、思い出となると俄然気は良いけどやんちゃな子は輝いてくる。その点真面目で手がかからなかった生徒の印象は薄い。やんちゃというのは自分の生き方に素直に生きていて個性的だから面白いのいか。ただ、やんちゃで手はかかってもどこか憎めない愛すべき人の良さがあるというところがポイントだ。先日も娘がお世話になっている中学校の校長先生とお話ししていた際にも、校長先生の中学校時代の教え子でもありドクターのいた高校にも通っていた気は良いけど暴れん坊やんちゃな生徒のことが話題になった。やんちゃとの付き合いは大変だけど面白い、そう思う先生や大人がいて嬉しい。
☆終わったことは終わったこととして、今の生活を充実するためにまず腹ごしらえをするドクター。やんちゃと付き合うのはエネルギーがいる。
Dr.220 面接練習(12月14日)
息子の大学受験のための面接練習に付き合った。高校でもいろんな先生にお世話になっている。身内(自分をよく知っている人)の前で話すのは大変だと思って、あまり父が面接練習するのはどうかと思ってこれまでやってこなかった。というのは、ドクター自身もこれまでいくつか面接を受けたが、その練習の時に自分をよく知っている人に面接練習をしてもらって汗だくタジタジになった苦い記憶があるからだ。面接試験というのは、ある種自分のプロモーションだから自分の良い所頑張っているところをうまく(ある面過大に)表現して相手(面接官)に伝えなければならない。嘘はいけないが、針小棒大ちょっとしたことでも大きく言っても良い(あるいは言わなければならない)。だから自分のことをよく知っている人の前では恥ずかしくって堂々と言えないのだ(実態がないのに自分を大きく見せるのが得意なドクターだけかもしれませんが)。ところが自分をあまり知らない初対面に近い面接官の前では、ばりばり話すのは得意だ。校長試験の面接のときなどは、面接官の前で趣味の狂言の謡いを披露したほどだ。ただ面接が盛り上がっても合否には直結しない。合否は採用人数や採用したい理由など、自分の実力以外の要素も大きい。だから息子だけでなく面接を受ける人に言いたいのは、例え面接で落ちても落ち込む必要はないということだ。決して自分の力が足りないということではない。面接官の見る目がない場合だって、採りたい基準が自分と違っていただけの場合だってある。面接結果、その時の面接官の判断が全てではないことは声を大にして言っておきたい、何せドクターが面接官をやるぐらいですから。ドクター面接を受けた皆さんごめんなさい。
☆息子の面接用に用意した椅子。久しぶりにドクターも座ってみて緊張したと言いたいところだが、この年齢になると怖いものはあまりなく、緊張したふりだけです。その場を楽しむことや、結果に一喜一憂しないでただ受け入れるだけとい人生哲学を磨いているので、まだ途中ですけど。
Dr.219 滅多にない経験(12月13日)
コンビニでトイレから出ると(トイレ我慢筋のゆるんだドクターはしょっちゅうコンビニトイレのお世話になり、その度に菓子パンを買うのでまた菓子パン生活がエスカレートしている)急に店内の電灯が消えた。何かをやらかしてしまったのではないかと(何かハプニングが起こると自分が原因のことが多いので、何かあるたびにオドオドするのが習性となっている)オドオドしているドクターに店員さんが「ご迷惑をおかけします。店内の電気設備の点検のための停電です」と声をかけてくれた。「いやー、また何か自分がやらかしたかと思いましたよ」というドクターに、「お客様のせいではありません。でも、こんな経験滅多にできないことですよ」と言われた。「そ、そ、そうですね。人生で初の経験です」と答えたが、本当にモノは言いよう、考えようで変わる。停電の薄暗いコンビニで買い物をするなどそう簡単にできる経験ではないと思うと、何かワクワク感が増してきた。調子に乗って「停電ですけど電子マネーは使えますか?ホットコーヒーはどうですか?」とこの停電コンビニを堪能しようというノリになってきた。結果的には電子マネーは使え、コーヒーメーカーは作動しなかったが、貴重な経験と教訓を得た。
☆訳あって早朝薄暗い中を最後の黒豆乾燥の状態をチェックしに作業小屋へ行った。滅多にない経験だ。滅多にないことは心に残る。
Dr.218 「きょうよう」「きょういく」(12月12日)
定年退職者の毎日には「きょうよう」「きょういく」が大切であるとは多くの人や書籍が言っている。勿論、それらは「教養」「教育」ではなく、「今日用(がある)」「今日行く(ところがある)」ということだ。定年後生活初心者のドクターの実感としても、「今日やることがある」ことはとても大事だ。「自分の人生はこれでいいのか」「今後自分はどうなっていくのか」「在職中はあんなに活き活き人と一杯話したのに、今のこの孤独は何だ」とかいらないことを考えないためにも空き時間を作らないことは大切である。ところが昨日午後3時から7時までの4時間この魔の空白時間を作ってしまうところだった。もともとこの時間は残っている黒豆を乾燥機に入れようと考えていたのだが、もう少し後から降るはずだった雨が午後三時頃から降り始めたため出来なくなった。事前の計画ではこのことも予想してそういう場合は室内で出来る「米つき(玄米の精米)」をしようと思っていたが、それを忘れて一時「どうしよう、どうしよう」と慌てた。それほど空白の時間には懲りている。まあ今回はその後何とか「米つき」を思い出し事なきを得たが、これほど認知力が弱ってくるとは。定年後の生活には「きょうよう」「きょういく」も大事だが、それもある程度認知能力が残っている間だということも分かった。認知症が進めばまた別の世界が待っているのだろう。それもレポートしたいが、その時自分にそんなことができるかどうかは分からない。ともかく、未来の事や分からないことをあれこれ心配するのは快適定年後生活には適さないことは分かっている。
☆ドクタートラクターで「黒豆どうですか」という記事を載せようと写真撮影している間に、今日(の)用「米つき」を思い出した。ふー。