Dr.217 お風呂1時間(12月11日)
お風呂1時間と言っても早風呂のドクターのことではない。同じ村に住む同級生(彼も今年定年退職して、農業一本で生活している)が村の集会で顔を合わせた時に、「勤めに行っている妻が帰ってから作る自分の家の夕食は7時で、農作業が終わってから間があるのでお風呂に1時間入っている」と言った。風呂好きだという彼は結構この長風呂を気に入っているようだが、どう見ても毎日お風呂1時間は長すぎる。彼は勤め人の間はなかなかできなかった家業の農業をやりたいということで、再任用を断って百姓になったが、会社人の時とは時間間隔が違い苦労しているようだ。同じくフルタイム再任用をやめて自由業となったドクターとしては身近に仲間がいることを心強く思うと同時に、お互いに少しでも早くたっぷり時間があるこの生活に慣れるように祈っている。幸い祈りは得意技だ。毎日を忙しくしている人から見れば、たっぷり時間があるのは贅沢に思われるかもしれないが、毎日決まってする仕事がない中(百姓仕事はやることは結構あるが、今日必ずこれをしなければならないということはなく、自分で天気や作物の育ち具合と相談しながら予定を決めなければならない)、毎日を機嫌良く過ごせるように時間の組み立てを考えるのは結構ハードルが高い。ハードルは高くても誰でも定職が無くなった後はこの課題に挑戦しなければならない。同期より少し早くこの難題に取り組み始めたことを好機ととらえて後続のため何よりも自分のためにも道を探りたい。「僕の前に道はない僕の後に道はできる」という気概でやってみます(実際には数多くの先達隠居人がいますけど)。
☆昨日の日中に見た虹と今朝の村の夜明け。自由時間たっぷり者はこんなものが撮れる。
Dr.216 叩いて直す(12月10日)
百姓ドクターとして黒豆の乾燥・脱粒(乾燥した黒豆のさやから黒豆の実を取り出す作業)に精を出している。乾燥は畑で予備乾燥した枝付き黒豆を束にして自分の作業小屋にある専用の乾燥機に入れて灯油を焚いて温風で乾かす。脱粒は乾燥機で乾いた枝付き&さや付き黒豆を専用の脱粒機で粉砕して実だけ(実際には細かい枝やさやなんかも混じっている)取り出す作業だ。これを天候と相談しながら何クールか繰り返す。早く出荷するほど値段が高くなるので、それも作業を急がせる。妹や母親にも手伝ってもらいながら作業をしているが、ドクターの弱みは機械にある(他にも甘いものやお酒や女にも弱い)。機械が動かなければお手上げだ。電子機器のような繊細な機械ではないが、機械音痴のドクターとしては機械が動かなければいかんともしがたい。今回は黒豆乾燥機のスイッチが入らなかった。これまでの反省からコンセントを間違えたのではないか(作業小屋にはいくつか電圧?電流?の違うコンセントがある。いくつかコンセントがあるのは確かだが実は何が違うかもよく分かっていない)と差し込みを変えてみたりしたが動かなかった。ここは何とか念ずることによって動かしたが、今度は途中で豆が出てこなくなった。何やかやとやってみたが出てこない。これ以上運転を続けたら取り返しのつかないことになるのはこれまでの経験から分かっているので、もはやこれまで、近所の詳しい人に頼むしかないかと思っていた時、一緒に作業していた母が機械の出口を手でたたいた。「そんなことしてもあかんやろ」と言っている間に、詰まっていた豆が出始めついには大量のつまり豆が出てきて何とか作業を終了することが出来た。機械をたたくという原始的なやり方が事態を打開するとは勉強になった。人生も行き詰った時にはあれこれ考えず原始的な行動が事態を打開することにつながるかもしれない。さすが年長者から学ぶことは多い。
☆田んぼから運んだ黒豆を乾燥機で乾燥させる。これからこの入れ物いっぱいになる。
☆乾燥した黒豆をこの脱粒機にかけて実をとる。母がこの機会をたたいて直した。その後、実を地域共同作業場の選粒機でごみを取り除き大きなものを選ぶ。この機械も動かなければ叩いてみるか。
Dr.215 定年後研究家(12月8日)
冒険教育研究家ドクターのもう一つの顔(わらじ)である定年後研究家の魂が疼いて書店で『定年後』という本を衝動買いした。「定年後の最大の問題は何か知っていますかー健康?お金?いいえ、孤独です」というキャッチコピーにもひかれた。定年後生活8ケ月ほど経験して本当にそう思うからだ。健康もお金ももちろん大事だが、毎日何かやることがあること、人に必要とされること、人と交わることの大切さを痛感する。しかし、「何かに打ち込んでいる人がいつまでも元気で活き活きしている」ことは分かるが、そのようなものがない人が元気で活き活きするにはどうすれば良いか、そこが知りたい。「自分で生きがいを探せ」と言われればそれまでだが、正論だけを大きな声で言っても親切ではない。また、一つ見つかっても加齢や諸事情でそれを続けられなくなることもあるだろう。ドクターの場合も冒険指導の最中や直後は活き活きしてるしやりがい生きがいを感じるが、1日中屋外で立ち続ける体力や次のアクティビィティを思い出す記憶力に不安も出て来たし、悪い癖の「飽き症」も強敵だ。そこで定年後研究家ドクターの出番となる。こちらの顔は自分自身の現在と未来の幸せがかかっているし、今リアルに試行錯誤できるメリットもある。是非とも何らかの結論を導き出し、これから定年を迎える後輩の皆さんに伝えたい。そうか、これは大きなやりがい(社会貢献)でもあることに今気づいた。でも心配はドクターの認知能力が結論にたどり着くまで持つかどうかだ。この『定年後』も以前にも買っていたことが判明したばかりだ。
☆黒豆の枝を切って逆さまに干しているが、「日当たりが悪いので道路(写真2枚目)に並べよ」という母の命令を受けて並べ直す作業をした。①親の言うことを聞く(親の喜ぶことをする)、②あまり仕事の効果にこだわらず(場所を数メートル移動してもそんなに乾くとは思えない)時間がつぶせたことに感謝して過ごす、なども今のところ有効な定年後生活充実のヒントだ。
☆朝ランニングしていると、近所の人が自分が出品した特産館で売れ残ったお餅詰め合わせをくださった。③地域近所の方と良好な関係を築く、これも大事なヒントだ。かくして自分を実験台に研究は進む。
Dr.214 たまたま上手く行った(12月7日)
3日間にわたる企業研修の指導を終えてファシリテーター仲間と活動を振り返っている時、ドクターが「今回の指導はたまたま上手く行ったわ」と言ったら、「この前も同じようなことを言ってましたよ」と言われた。ドクターは「たまたま上手く行ったわ」とよく言うらしい。この言葉の真意は、天気の急変や活動場所の制限、ネタ詰まり等で途中何回か「この先どうしたらいいんだろう。何をしたらいいのか分からない」という不安に駆られながらも、参加者の暖かさややる気、冒険の神のお陰で苦し紛れに出したネタ(アクティビティ)がヒットして良い結果(チームの課題解決能力の拡大と個人の成長・学び、コミュニケーションの活性化、心の交流等)で終われてホッとしているという気持ちを表している。有能なファシリテーターなら瞬時にメンバーの特徴や能力を見抜き、そのグループにふさわしい活動をグループの出来上がり状況に応じた適切な難易度で提供できるのだろうが、ドクターの場合はいつも不安を抱えながらの出たとこ勝負となることが多い。しかしこの出たとこ勝負がお陰様でいつも大体、たまたま上手く行って終わる。そんなこんなで預かったグループ(参加者)にそこそこ満足してもらって終われることと自分が活動を楽しむことにはある程度自信がある。決して油断してはいけないし、いつも始める前と途中にどのネタ(アクティビティ)で行くかの悩みはしんどいが、もしかしたらこの格闘とうまく行くかどうかは自分の腕ではなく毎回のいろんな偶然の要素によって決まるのだと思う謙虚さが(自分で言うのもなんだが)ファシリテーターには必要ということではないだろうか。
☆誰が指導してもある程度は確実に盛り上がるハイエレメントが雨で続けられなくなり、やむなく室内でフーセンをついたが、これが思いのほか盛り上がり、大きな楽しさ(Fun)と多くの学びにつながった。今回は上手く行ったがいつもフーセンをつけば良いというものでもない。やっぱり今回も「たまたま上手く行った」というのが正解だ。
Dr.213 セオリー破り(12月6日)
冒険指導も二日目になるとかなりチーム内の親密度が上がり、こんな時滅多にやらない「ブラインドペアウォーク」というのをやる。目隠しをした相手を目隠しをしない人が無言で誘導するという活動で、ドクターの場合は30分歩き、目隠しと誘導を交代して又30分やるのを常道としている。無言なので細かな配慮が心の奥深くに伝わり、日常では経験できない心の交流ができる。この時指導者は全体を見渡し、安全管理とプログラムの進行状況をチェックするのがセオリーだ。しかし今回は参加者が奇数ということと、これまでのグループの状況から安全面の心配はなく落ち着いて実施できるだろうと判断して、ドクターもペアの一人として参加するというセオリー破りを行った。自分が目を開けて目隠しをした相手を誘導している時はまだ全体の様子が見えたが、自分が目隠しをして誘導してもらう30分間は自分の安全はペアの相手に、プログラムの進行状況及び参加者の安全は参加者に任せるしかない。普通の指導者ならまずやらないだろう。よくやって、自分が目を開けて相手を誘導するところまでだろう。でもそれではドクターの相手は責任をもって目の見えない相手を誘導するという体験ができない。ドクター自身もこのメンバーの一員としてやってみたいという気持ちと、メンバーと同じ状況を体験して一体感と参加者の気持ちを参加者の目線からも理解するという気持ちで目隠しもした。幸い事故はなかったが、課題はあった。セオリー破りはどんどんやりなさいと勧められるものではないが、躊躇逡巡しながらもその場の判断(勢い)でやってしまった。考えてみるとドクター人生もそんな感じで、ほめられたことではないがそれが私の人生(やり方)のようだ。
☆ブラインドウォーク中のドクターと参加者。セオリー破りに正解はないが、結果は引き受けなければならない。