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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.889 何をしたいのか(1月23日)

パソコンアプリを使って遠隔で講師登録している団体の面接を受けた。その団体は生涯学習を支援する団体で、利用者の要望に基づいて講師を派遣している。子どもや保護者向けのリクエストが多いようだが、生涯学習の中には高齢者も含まれている。ドクターの主な関心も、これまでは子どもの教育や保護者の子育てや生き方にあったが、この頃では自分も含めて定年退職後の生き方・考え方にも関心がある。どう考えて、どう毎日を送れば、寿命まで絶こうちょうに生きられるのか、その処方箋なり対策を探りたい。定年後も何らかの仕事があったり、社会や家庭での役割があったり、趣味があったりそのサークルに参加しているような人は心配ない。心配なのは年金や貯えによって働かなくても何とか生活は出来るが、これといった趣味ややりたいことが無い人たちだ。自分から動こうとしないで、家の中に閉じこもっているのは本人の責任だと言ってしまえばそれはそうかもしれないが、不本意な閉じこもり者や不本意な孤独者は少しでも減らしたい。いつ自分がそうなるかもしれないし、そうした人たちの存在は社会的損失だと思うからだ。折角人間としてこの世に生まれて来て、定年まで社会や地域に貢献してきた人たちが最後まで気持ちよく生きられる術がないものか。ここまで寿命が延びた現代にあったシステムや考え方を探りたい。

 ☆パソコン画面を通した担当者の方との対話の中で、自分が何をしたいのかを探求するドクター。単にこうした若い人と話したいだけかもしれない。

Dr.888 揺れる心(1月22日)

友人知人から怪我や病気、中には死亡の知らせが入る。こんな厳しい情報に触れると、その方々のご回復やご冥福を祈るとともに、特に何もなく生きていられている現状に感謝しなければという気持ちになる。でも又しばらくすると、やりがいというのか生きがいをバンバン感じられない生ぬるい日常にもの足り無さを感じたりする。もの足りなければ自分から動けばいいと思うがそれもなかなか出来ない。自分のせいだけにどこへもこのやるせなさを持っていけない。こういう中途半端な焦燥感に対処するために考えたのが、「流れで生きる」という生き方だが、これでいいと思うこともあれば、こんなんじゃだめだと思う時もある。どう考えても結局は「流れで引き受けたことをやりながら生きて行く」しかない。生きていると、時には「流れでやること」の中に面白いことややりがいを感じることもある。その時々出会う面白さややりがいのために生きているのだろうか。

 ☆流れでいろんな学校を訪問していると、懐かしい知人や元気な子ども達に出会える嬉しさや面白さに出会えることもある。

Dr.887 何をするか(1月21日)

特に用事がない時何をするか、これが結構「人生絶こうちょう」の大事なポイントだ。『〇ンパンマン』が67歳頃に急に売れて人気漫画家になったY氏は、仕事がない時にもテーマを決めて研鑽し続けることが大事という。それは分かるが、研鑽していたら誰にでも陽が当たるわけではない。陽が当たろうと当たるまいと自分がやりたいことに打ち込んでおくことが大事ということだろうが、これがなかなか凡人にはできない。凡人の定年後の過ごし方を研究するドクターとしては、Y氏提案だけでは解決できないという思いが残る。将来の陽の目を当てにする人はそれを目指してやって行けばいい。陽の目が当たるかどうかは「流れ」「運」次第と考えるドクターとしては、陽の目を目標にせず、先ずは「食べて」「寝る」を基本に「生きる」ということでやって行ってはと思うが、それでは「ただ生きる」ことが人生目標となり、よく「寝る」にも「食べる」にも何かしら「動く」方が良く、それでは「何をして動く」のかという最初の問いに戻ってしまう。そんなことで未だ「何をするか」という答えは見つからないが、答えを見つけるためにもとりあえずは「食べて」「寝て」生きて行かなければならない。同じ生きるなら元気に明るくと思うが、それには「どう生きる」という指針があった方が良く、また最初に戻って「何をする」を考える日々が続く。

 ☆とりあえず最近は議員活動の一環で「あいさつ運動」が活発な学校を回ってお話をお聞きしているが、生きてると「何かする」テーマは向こうからやってくる気もする。

Dr.886 そこから始まる(1月20日)

特に予定のない日は、気を付けないとダラダラ過ごしてしまう。時にはダラダラもいいが、毎日がダラダラだとそれにも飽きてしまうので、毎日ダラダラは好まない。ドクターの平日は、テレビで毎朝同じ時刻に放映される「紙〇 ロペ」という短いアニメを見ることから始まる。そこから1日が始まり、そこから逆算して前の日の就寝時刻が決まり、その時刻に寝るためには何時に入浴して、夕食は何時頃と前日(というのか今日)の予定が大体決まってくる。このアニメを見るのを基に一日が進んでいる感じだ。こんなことは自慢げに言うことでもないが、言いたいのは「人生そんなもん」「たいそうに考え過ぎてはいけない」ということだ。人によって「そこから始まる」1日、1週間、1年、一生の「そこ」は違うだろうが、「そこ」はあった方が良いし、「そこ」のレベルには拘らなくていい。「そこ」は他人と比べるモノでもないし、「そこ」からどこまで行くのかはその人次第だ。「そこ」は一つの起点に過ぎない。さらに言えば、どこまで行くかにも拘らなくても良い。どこまで行くかは持って生まれた「流れ」によっている。ただ「流れ」は大事にして、天命に従い行くところまで行くのを拒む必要はない。

 ☆今朝も「紙〇 ロペ」を見てから、ドクターの「流れ」に任せた1日が始まる。

Dr.885 役に立つ(1月19日)

絶こうちょうに生きるためには、「貢献」と「感謝」が大事だということは分かるが、この「貢献」が難しい。現役時代は仕事を通して社会の役に立っていることは間違いないし、特に教師は子どもや保護者や地域の方等から感謝の言葉を頂いたりするので分かりやすい。表立っては感謝の言葉がない業種も、どの業務もが繋がって社会が成り立っているのだから、社会に貢献しているのは間違いない。社会貢献等でマスコミなどに取り上げられる人だけでは世の中は回らない、その有名人の食べる物や着るものを作る人もいるし、その食べる物を作る人の家を作る人もいるし、家を作る木を植える人もいる。こう考えると一つとして社会に役立たない仕事はなく、仕事に就いている人は全て「貢献」を果たしていると言える。問題は仕事に就かない(又は就けない)人や定年後に仕事をしない(あるいは出来ない)人だ。現在(人生の中のこの期間、1年の中のこの期間)は仕事をしていなくても、別の期間には仕事をしたことある人もまだ「貢献者」として理解しやすいが、これまでもこれからも仕事をしない人はどうなのだろう。「役に立つ」かどうかも大きな視野で考えなければならず、「仕事」も狭い意味でとらえるのも違うように思う。人間として生まれ、生かされ、寿命まで生を全うする、これでいいし、これしかない。「貢献」「役に立つ」視点は大事だが、この意味をあまり狭く考えては間違うような気がする。今生かされている人みんなが夫々の生を生きている。

 ☆先日は裏山の草を雑に刈ったが、これがどう世の中の役に立っているかは簡単には分からない。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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