Dr.940 すごいぞ市職員パワー(4月7日)
この4月から丹波篠山市の教育長として市役所第2庁舎3階にある教育委員会で働かせて頂いている。あいさつや会合が多く職員の方とはそんなに触れられていないけど、ドクター得意のちょっとウロウロする中で垣間見るだけでも、各個人が持たれるパワーの凄さに感動する。例えば①市職員の方はいろんな分野を異動されるので多様な職務を経験されているし、専門性も両立されている、②多様な人が夫々の持ち味を生かして仕事している(柔軟な人は職場の連携をスムーズに、強面の人はそのパワーがいる仕事に等、③責任感がある、④市民のことを考えられている、⑤やさしい(職に不慣れな教育長ドクターを皆さんで助けてくれる)などなど数え上げればきりがない。こんな素晴らしい人たちと働けることを嬉しく誇りに思う。こんなすごい人たちに対して自分の役割は何だろうと考える。何も出てこない。全てにおいてこの方々の方が上回っているように思う。かくなる上は、お気楽に上機嫌に職務を務め、こんな頼りない奴でもなんとかやってますよと、「時には肩の力を抜いてお気楽に」というメッセージを送るしかないか。
☆思い付きで提案した『教育長きょういくじょう』ブログも短時間のうちにアップまでしていただいた。関係者の皆様に感謝申し上げるとともに、改めて本市職員のパワーを実感した。ドクターが帰る時でさへ、こんな夜景色になっていたのに、おそらく担当者の方はもっと遅くまでお仕事されたと思うと、申し訳なさが募る。内容がしょうもなければどないしょう。

Dr.939 教育長きょういくじょうでは(4月6日)
丹波篠山市のHP教育委員会コーナーに教育長ブログを始めようと画策している。タイトルを「教育長きょういくじょう」にしたいと提案したら、スタッフの方から懸念の声が出された。真面目なテーマが並ぶ教育委員会コーナーに、こんなふざけたようなネーミングでは市民の方々のご理解が得られないかとの心配の声だ。さらに、こういう名前ではどうでしょうという提案まで頂いた。単に否定するだけでなく、代替案を出すとはさすがだ。前教育長の指導が徹底していることに感動した。「きょういくじょう」は「今日行くよ」というこの辺の方言だ、と本人は勝手に思っている。ドクターの周辺では語尾に「~じょう」という言葉を言う人が結構いる。勿論これはこれまで書いてきた「校長先生絶こうちょう」と同じくダジャレから来ているが、「絶こうちょう」と同じく「今日いくじょう」は自分の教育や生き方のテーマと言っても良い。子どもや利用者の様子を見て、声を聞くため、要請があってもなくても直ぐに現場に出かけたいという意図が込められている。いろんなところへ腰軽く出かけ、現場の声を拾って、本市の教育現場の様子やそこにいての自分の思いを親しみやすい形で伝えたい。自分の思いはそうだが、周りの意見も聞きたいし、さてどうなりますことやら。
☆「今日行くじょう」でスポーツセンターへ行ったら、教え子たちに出会った。高校を出てから市内で働いたり、市内にしょっちゅう帰ってきたりする若者、頼もしい限りですね、ってこんな感じでブログで伝えたいのです。

Dr.938 かえるのうた(4月5日)
雨が降ったからだと思っていた「かえるのうた(鳴き声)」が、どうも耳鳴りというのか自分の耳の中から聞こえているらしいと気が付いた。前から「ジー」という耳鳴り音には悩まされていて、医者に行ったり漢方サプリを飲んだりしているが、小さくなったような変わらないような感じだった。そこへこれまでは窓の外にいるかえるの声だと思っていた「キキキ キュルキュル」が、実際のカエルの声ではなく、耳の奥からの耳鳴りの音だと分かってショックだった。このところ「かえるのうた」が大きくなったのは、慣れない教育長のストレスかもしれないが、かえるのうた位で弱音を吐いていられないのでがんばるしかない。でも、いいこととしては、かえるのうたが大きくなったので、これまでの地味な「ジー」耳鳴りが気にならなくなったというのか、それを気にしている余裕がなくなったのか、以前ほど気にしなくなったことだ。このことからの学びとしては、「もっと大変なことが起こると、以前のちょっと大変だと思っていたことは気にならなくなる」ということだ。新たな大きな大変ごとで以前の大変ごとを吹き飛ばすというのは建設的ではないような気がするが、事実としてはそんな感じだ。「ジー」にしろ「かえるのうた」にしろ耳鳴りごときが大変なことだというのは幸せなやつだと叱られそうな気がするが、勿論他にもここで言えないような大変ごとはあります。ただ、大変ごとばかりに気が向くとドクター本来の元気さに支障が出るので、何とか明るい面を意識的に見て陽気に行きます。
☆この頃大きくなってきた耳鳴りの「かえるのうた」。「かえるのうた」で従来の「ジー耳鳴り」が気にならなくなったのは良かったが、ややこしいのは田んぼの近くで聞こえる時は本物の蛙の鳴き声の場合もあるコトです。

Dr.937 1日1日を(4月4日)
これから先の責任の重い教育長日々を思うと、重圧で心が折れそうになるが、折れたら責任も果たせなくなるので何とか持ちこたえなければならない。「弱音吐けないな」と思うと、又しんどくなってしまう。そこで兎も角その日「一日を何とかやりきる」ことを目標にして、何とかやり切った日を積み重ねて行くしかないと思っている。やりきるに越したことはないが、やり切れなくて悔いを残したとしても時間は流れ1日は過ぎて行く。先ずは目の前の1日だと思うと何とか頑張れそうな気がする。勿論、長期的な見通しや計画も必要だろうが、今回の自分の議員辞職・教育長就任も含めて未来は完全に予測することは難しい。だとすればやはり、その日一日に全力投球するしかないが、この全力投球でがんばることについても、尊師からご指導いただいている通り、「頑張り過ぎずに、いつもの調子でやる」ことを忘れてはいけない。頑張りすぎて自分らしさをなくしたり体調を崩したり、周囲に負担をかけ過ぎることになってはいけないという戒めだ。そんなこんなで、日々をいつもの通り流れを大事にしながら、できることややらなければならないことを淡々と機嫌よくやっていくしかないと、いつもの自分らしくなく考え続けている。
☆この土日は有難いことに時間があるので、今のうちにと田んぼを鋤いたが、他にも考えなければならないことが多い。考えすぎると動けなくなる質なので、考えるけど考え過ぎないという難しい対処をしなければならないが、とりあえず今日一日を何とかやりきることに専念します。


Dr.934 始まりから素で(4月2日)
4月からドクター(このブログでは引き続き自分のことを冒険ネームで呼ぶことにします)の教育長としての生活が始まった。いろいろご心配ご迷惑をおかけしての教育長就任だけに精一杯全力で職務に当たるしかないという悲壮な覚悟で始まった長い一日だったが、事前に聞かされていたものや突然のものまで入れて7~8回になる集まりでのあいさつなどをやっていると、結局もう素で行くしかなくなった。というのか自然と普段の考えや言動が出てしまう。曰く「にもかかわらず笑顔で行きましょう」「人生なるようにしかならないけど、なるようにはなるものです」「課員の指導はまず上司の皆さん自身が元気で溌剌と仕事することから始まります」「一見意に沿わない異動もきっと後で役に立ちます、腐らず置かれた場所で咲きましょう」「主人公は誰かということを忘れないように行きましょう(学校は子どものためにある)」などなど、多くは普段から思ったり言ったり書いたりしていることで、主に自分自身に言っているのもいつもと同じだ。結局素が出てしまう、素(地・自然体)で行くしかないということか。結局4月になってもこのブログを書いているが、市の教育委員会HPで教育長ブログを始める話もあり(自分が言い出した)、こちらをやめるのか両方続けるのか、これも結局「流れ」次第だ。またいつもの素が出ましたね。
☆4月から仰せつかった教育長室で、笑ってる場合ではないと思うがここでも「素」が出てしまった。


