Dr.829 新たな発想(11月22日)
黒豆の葉っぱ取りに追われている。定年後の生き方やE判定を受けた検診結果への対応や将来の不安や天井裏の動物(イタチか?)の物音等にも追われている。後の不安はさておき、葉っぱ取りについて新たなやり方を聞いて実践してみた。これまでは葉っぱをとってから軸を切って、数本寄せ集めて乾燥させる(専門用語で「島立」という)という一般的な方法でやっていたが、今回ある人から先に軸を切って(葉っぱの付いたまま)干してから、乾いたところで枝を持って振ったら乾いた葉っぱや枝が簡単に落ちるというのを聞いてやってみた。ちょっとした違いで誰でも思いつきそうなことだが、これまでは従来通りのやり方に縛られてそれでないといけないと思っていた。言われてみると、先に軸を切った方が乾きやすそうだ。何故こんな簡単なことが思いつかなかったのだろう。固定観念というのか、これまでの習慣というのか、周りの人が誰もやっていないというのか、いろいろ理由は考えられるが、大変でも面倒でもこれまで通りのやり方でやっていた。新しいやり方はまだ乾燥後の枝振りをやっていないので結果的に効率的なやり方かどうかは分からないが、新たな発想で新しいやり方をやってみたという満足感は大きい。結果的に前のやり方が良かったということになるかもしれないが、そうなったら前に戻せばいいだけのことだ。何事も新たなことは成功するかもしれないが失敗するかもしれないというリスクはある。でも新たな発想、新たな視点がないと発展はない。今回黒豆の乾燥作業で新た取組が出来たことは本当に何か気持ちよい。これは是非、他のことにも応用して、定年後の生き方や人生の捉え方についても新たな発想や実行をやってみたい。
☆新たな発想でやってみた黒豆の葉付き乾燥。新たなことをやってみるワクワク感を教えられた。ちょっと大層な言い方ですけど。


Dr.828 おちゃめな指導者(11月20日)
ドクターは冒険教育指導者の中では最年長に近い。海外にはもっと高齢でも現場に立たれている方が多いと思うが、日本では少ないように思う。一つは一日中自然の中で立ちっぱなしで指導する体力的な問題があるように思うが、それよりも大きいのが指導することが多い子ども達との心のギャップが広がることではないかと思っている。無邪気な子ども達との心の交流を無心に楽しめるかどうか、ある面子どもと同じレベルで触れ合えるかどうかにかかっているように思う。若いうちは純粋に子どもと関われるのが嬉しかったり、冒険教育の教育的効果に魅了されたりして心弾んで活動で来ていたのが、年齢や経験を重ねるにつれて慣れや大人の常識が邪魔をして、心から楽しめなくなる場合が多い。その点、成長しない指導者を自認するドクターは、年々子ども達の精神年齢に近づいているのではないか。子ども達と一緒に活動するのが面白くって仕方がない。精神年齢も若返るというのか、年相応の落ち着きに欠けるというのか、おちゃめ度が増してきた。先日も指導が終わって子ども達から挨拶を受ける時、他の指導者が並んでいる時に一人だけ柱の陰に隠れようとして、側にいた新人の指導者から「隠れないで出てください」とばかりに押し出された。途中で飛び出して子ども達を驚かせてやろうとしたのを、挨拶はきちんと並んで受けるべきだという常識を持つ若手に注意された格好だ。年長者が注意することの方が多い世間一般の流れとは逆だ。このような場面は過日の学校運営協議会でもあった。子ども達(中学生)と触れ合える機会があって興奮したドクターが、その後の校長挨拶の時にもはしゃいでいて年長の委員から「うるさい」と注意された。齢がいっても落ち着きを欠くドクター、傍からは困った存在だろうが自分ではそんな自分が好きだ。だから指導の現場にまだ立てると思っている。この気持ちが亡くなった時が潮時かな。
☆紅葉の好天の中で実施できた過日の冒険指導、風で落ち葉が舞うのも美しかった。ドクターの行き当たりばったり指導はいつまで続けられるのだろう。

Dr.827 言行不一致(11月19日)
講演会やいろんな機会に「(頼む人はあなたを見込んで頼むのだから)人から頼まれたことは出来るだけ引き受けよう」と言っている。自分では無理だと思っていることや最初気乗りしないことでもやってみると意外と面白い、自分に合ってると思うこともある。自分の可能性を広げることにもつながるので、先ずはやってみようと言っているし、実際その通りだと思っている。でも現実的には、何でもかんでも引き受けてると身動き取れなくなるし、時間や出費が膨大になることがある。従ってどこかで線引きをせざるを得ない。こうした実際を知りながら「人から頼まれたことは先ず引き受けよう」と呼びかけているのは、自分を過小評価して自分の可能性を狭めている人が多いと思うからだが、言ったことは自分に返ってくる。自分が言う以上、自分もどんな役でも引き受けなければならない。そんなこんなで随分多くの役をやらせていただいているが、今回また新たにある会(怪しいものではなく、伝統もあるボランティア団体)に入会しないかというお話を頂いた。その会の活動には全面的に賛同するのだが、これ以上出なければならない時間が増えると、ちょとゆっくりする時間が無くなってしまう。他にもここには書きにくい事情もあって、今回は参加はお断りする方向だ。これでは言行不一致、言ってることとやってることが違うと責められても仕方がない。これを機に今後は「頼まれたことは断らない」という提案はしないようにしたい。あまり前向きな解決策でないような気がするが、生きていればこんなこともある。まあ、こんな決断をするようになったのも流れと観念し、ぼつぼつ行きたい。でも、「出来るだけやれることはやる」(あんまり過度にならない範囲で)という貢献の精神は忘れないようにしたい。
☆学校訪問で見かけた、ある小学校の廊下に置いてあった水盆。こんな感じで役を引き受けるのが賑やかでいいが、これもこれ以上多くなると美しくない。何でも「ほどほど」が大事だ。これは良い断る口実に結びついた。


Dr.826 欠けた時が気付く時(11月18日)
最近天井裏の物音に悩まされている。アライグマか何かの動物が住み着いたようだ。ガサガサゴソゴソ音が気になって目が覚めてしまう。下から棒で音のする辺りを叩くが何の効き目もない。却ってこちらの眠気が飛んでしまうだけだ。夜中に天井裏で何の物音もしない、静かな中で眠れる、今まで当たり前と思っていたことが欠けた時その有難さに気付かされた。「何事もないことは恵まれているということ、当たり前の日常に感謝しなさい」とはよく言われるが、実際に当たり前が欠けてみないと、それまでの状態が恵まれていたことには気付きにくい。「静かな環境で眠れる」という当たり前が欠けてその有難さに気付くとともに、まだ自分には欠けずに出来ている現状(なんでも美味しく食べられる、手足が何の支障もなく動く、入院していない、家族が元気でいる、住む家がある・・)に欠ける前から感謝し、欠けないように今出来る配慮をすることへの道筋をつけることができたことは収穫だとは思うが、天井裏の物音は気になる。この音の解消と、もっともっと多くの他の当たり前の有難さへの気付きに向かってがんばって行きたい。
☆これから始まる黒豆の乾燥のオペレーター研修会。村の人たちが集まりました。そんな中へ参加できた当たり前の有難さに気付くことが出来た。



Dr.825 何事もない日(11月16日)
市議会一般質問の推敲や黒豆の葉っぱ取りの続きをして過ごした。夕方にはトレーニングをして、一杯飲んだ後、夜の会議もないのでNHK大河ドラマ「麒麟がくる」を見て就寝した。葉っぱ取りを手伝いに来てくれた妹と一緒に夕食を食べた母以外は特に話もしていない。特に変わったこともない「何事もない日」だったが、次第に質問原稿が出来上がってくるのは嬉しいし、好天の中で色づく山並みを見ながらマイペースでする畑仕事は気持ちいいし、妹が手伝ってくれるのも嬉しい。母親は少し前に足を痛めてそこからくる弱気発言をしていたが、ここ数日は足も直り普通に暮らしている。元気で身の回りのことをしてくれるのもありがたい。そんなこんなで、特に記憶に残るようなことは何もない普通の日だったが、周りの人も大きな不調はなく、元気に動けて一杯頂いて熟睡できる日は有難い。こうした日を積み重ね、滅多にはないが時に訪れる「生きてて良かったと思える瞬間」に出会える可能性があるので、生きてることは素晴らしい。今日も流れでやる事をたんたんとやりながら機嫌よく過ごそう。
☆夕方(実際は写真でみるより早い時間)まで葉っぱをとって、トレーニングして一杯飲んで寝る、この何ということのない日が有難い。



