Dr.1237 終わったか(4月6日)
冒険教育仲間が無人島チャレンジ引率から帰ってきたとSNSで投稿していた。かつての冒険教育指導者としては、彼はよく頑張ったとは思うものの「自分も行きたい」という気持ちは湧いてこない。
冒険コースでの指導も含めて、ドクターの冒険教育指導者欲は終わってしまったのだろうか。かつては、どんどん指導に入りたかった。2泊や3泊のような長い指導が面白くってたまらなかった。身体の衰えもあるだろうが、意欲も衰えている。衰えているというのは正確でなく、意欲の方向が変わってしまったのを感じる。
かといって、これまで夢中になってきた冒険指導と縁がまったくなくなってしまう踏ん切りはついていない。人生と同じく、のらりくらりだらだらと区切りがつけられない。スパッと区切りをつけて、別の道に入ってしまう方がカッコよいようにも見えるが、ドクター流生き方「流れ哲学」でいうと、無理して道を付けるのではなく、自然と導かれてなるようになる方向へ行く。区切りもパタッとではなくダラダラ流れに任せて気が付いたらその道は終わって別の方向に向かっているみたいなことになる。
人生の転機においても無理せず流れに任せて(信頼して)、導かれる方向でやって行く、それで良いと思うし、それが自分らしいやり方だ。スパッと派の人はそれで行けば良いけど、他の人にまで強制することはない。だらだら流れ派はドクターとご一緒にボチボチ行きましょう。
でもボチボチ生き方を貫くのもちょっと気合が要りますね。これってちょっと変。まだ流れ哲学が完成していないせいでしょうか。流れ哲学究めるため、頑張らないで頑張ります。
☆流れで参加したヴィオラコンサート。場違いない感じでしたが、それも流れに任せていたから味わえた体験でした。流れ派がんばろう。ボチボチですけど。

Dr.1236 間が空きました(4月5日)
諸事情があり二日ほど間が空きすみませんでした。私にとって大事なブログ発信ですが、生きてるとその大事なものができないというような諸事情が時々やってきます。
一番大事なものは何かを忘れないように生きたいと思います。一番は命であり、生きて行くということだと思っています。ただ生きるっていろいろあって、油断すると迷いや弱気にもすぐやられてしまい気が抜けません。
だからと言って、いつも気張って生きるのも違うように思うし、だんだん自分にあった考え方・人生観を手に入れて自然体で生きても周りにも迷惑をかけず、それどころか周りも喜んでくれるような生き方が出来れば自分も嬉しい、そんな生き方を目指しています。
まだまだ道半ばですが、生かされている自分、自分の持ち分をもってそれに打ち込むように定められた自分、決して自分一人の力で生まれたのでも生きているのでもない。生かされているということは、大きな力に生かされ祝福されているということ。それを信じて安心して、たんたんと日々の勤めを果たしていきたい。皆さんも大丈夫、生かされているということは見守ってもらっているということです、大きな力・流れを信頼して心安らかに今日も自分の出来ることを機嫌よく果たしていきましょう。
☆篠山産業高校前の桜のトンネルも見ごろになってきました。生きてると時々生きてて良かったと思えることに出会えますね。有難いことです。今日も感謝を忘れずボチボチ行きましょう。

Dr.1235 自分らしく(4月2日)
人前でしゃっべたり、挨拶をしたりする時はやりがいというのか自分の居場所があると感じるが、調整したり、何かの議論をしたり、何も言えなくなる場になると、自分の無力を感じる。
自分の場でない所にいるのは自分も辛いし、周りにも迷惑だろうと思う。自分らしくいられる場にだけいられればそれにこしたことはないが、なかなかそうもいかない。とすれば、できるだけ自分が生かせる場が多い環境を選び、自分が生かせる場では積極的に、自分の場でない時は無理をしないでそれをわきまえて大人しくしている、そんなことになるだろうか。
そうは言っても、自分がどのような環境に置かれるかは、自分の意思だけでは決められない。それこそ流れに任せて生きる派ですので、流れでやってくる、自分が任された場で自分らしくやるだけです。これまでの流れの中でも、より自分らしさが発揮できた場に置かれたこともあれば、そうでなかった場もあった。でも、自分らしさ発揮が難しい場でも、その時の経験は役に立った。そんなこんな含めて流れに任すということが良いと思っている。
人生の終わりまで、流れに任せて生きて行きたい。自分らしさが発揮できる場では思いっきり、そうでない場ではそれなりに、まあボチボチ頑張ります。でもこれもこれまでの経験では、本人があんまりがんばってる意識がない時の方が人が評価してくれる。自分が評価など気にしないで思いついたことをやってるのがいいみたい。この齢まで生きると結構いろんな知見がたまります。これらを活かして生きやすい生き方を磨いて、良いと思うことは皆さまにも発信します。でも、これもこれは喜んでもらえるだろうと気合を入れたのは空振りで、何も考えないで思いついたことをダラダラ書いたのの一つ二つが喜んでいただける場合がある、そんな感じです。結局流れに任せて自然体で生きたり書いたりするってことですかね。
☆自然体で撮った盆桜展でのスナップと公式HP用の意識した写真。やっぱ自然体がいいですね。


Dr.1234 年度変わりましたけど(4月1日)
新年度になったが、皆さん慌ただしい時間を過ごされているのではないでしょうか。フルタイムの勤務をされていない方は、4月1日だからといって特別なことはないように思いますが、いつもの日の一日としてどうでしょうか。
年度や年齢が変わったからと言って自分がガラッと変わるわけではない。行事や事務量は多い時とそうでない時があるが、心の持ち方が大事となる。心の持ち方で気持ちが楽になるように経験を積んできたはずなのに、なかなかそれが上手く作動しない時がある。
自分の置かれた状況によっては、自分の心の落ち着かせ方がうまく行かない時がある。そんな時は環境を変えるか、心の落ち着かせ方を変えるか、何とかしなければしんどさが続く。
環境を変えるのはいろんなご縁があるので、自分の意思だけでは出来ない。とすれば、考え方を練って、より自分が機嫌よく生きられる心の落とし方を考えたい。今思い浮かぶのは、自分にはできることしかできない、でもそんな自分にも良い所はあると自分を励まし、めげずに自分の出来る範囲で自分らしくやっていくだけだ。今日も年度替わりで、いろんなことがあると思うけど、出来ることを自分らしくやっていきましょう。
☆ドクター机上の盆桜が咲きました。耐えてると(ぼちぼちやってると)咲くときがありますね。

Dr.1233 置かれた場所で咲きなさい(3月31日)
この言葉は何回か引用したことがあるし、これまでの人生で実感としてその通りだと確信している。どこに置かれるか、どういう役割が回ってくるかは自分の意思だけでない何か大きな存在(渡辺和子さんんに言わせると神の思し召し)に導かれているように思う。
自分の意思とは違っても、そこで精一杯咲く(出来ることを充実感をもってやる)と大きな気付きや学びが得られ、それが自分を形作っていく。そんな実感がある。自分がそうだった。
例えば、初めての校長が東雲高校だったことが、今の仕事につながっている。他の学校ではそうなっていなかっただろう。良いことも悪いことも含めて、導かれていく(置かれる場所が変わっていく)。
これを主体性がないと思う人があるかもしれないが、そうではない。置かれた場所で咲く人生哲学を主体的に選んだ(納得した)、と思っている。
この人生観が学びが多いし、自分を楽にするし、つぎの役割(場所)がワクワクする。もちろん自分のやりたいことも大事にすればいいが、願ったからと言ってそれが実現するかどうかは、やはり何か大きなものの力によっている。結局、これドクターの流れ哲学と同じです。さあみなさん安心して流れを信頼して生きて行きましょう。
☆城下町で行われている「ひなまつり」。これを見に行けたのも流れの中でです。
