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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.826 欠けた時が気付く時(11月18日)

最近天井裏の物音に悩まされている。アライグマか何かの動物が住み着いたようだ。ガサガサゴソゴソ音が気になって目が覚めてしまう。下から棒で音のする辺りを叩くが何の効き目もない。却ってこちらの眠気が飛んでしまうだけだ。夜中に天井裏で何の物音もしない、静かな中で眠れる、今まで当たり前と思っていたことが欠けた時その有難さに気付かされた。「何事もないことは恵まれているということ、当たり前の日常に感謝しなさい」とはよく言われるが、実際に当たり前が欠けてみないと、それまでの状態が恵まれていたことには気付きにくい。「静かな環境で眠れる」という当たり前が欠けてその有難さに気付くとともに、まだ自分には欠けずに出来ている現状(なんでも美味しく食べられる、手足が何の支障もなく動く、入院していない、家族が元気でいる、住む家がある・・)に欠ける前から感謝し、欠けないように今出来る配慮をすることへの道筋をつけることができたことは収穫だとは思うが、天井裏の物音は気になる。この音の解消と、もっともっと多くの他の当たり前の有難さへの気付きに向かってがんばって行きたい。

 ☆これから始まる黒豆の乾燥のオペレーター研修会。村の人たちが集まりました。そんな中へ参加できた当たり前の有難さに気付くことが出来た。

Dr.825 何事もない日(11月16日)

市議会一般質問の推敲や黒豆の葉っぱ取りの続きをして過ごした。夕方にはトレーニングをして、一杯飲んだ後、夜の会議もないのでNHK大河ドラマ「麒麟がくる」を見て就寝した。葉っぱ取りを手伝いに来てくれた妹と一緒に夕食を食べた母以外は特に話もしていない。特に変わったこともない「何事もない日」だったが、次第に質問原稿が出来上がってくるのは嬉しいし、好天の中で色づく山並みを見ながらマイペースでする畑仕事は気持ちいいし、妹が手伝ってくれるのも嬉しい。母親は少し前に足を痛めてそこからくる弱気発言をしていたが、ここ数日は足も直り普通に暮らしている。元気で身の回りのことをしてくれるのもありがたい。そんなこんなで、特に記憶に残るようなことは何もない普通の日だったが、周りの人も大きな不調はなく、元気に動けて一杯頂いて熟睡できる日は有難い。こうした日を積み重ね、滅多にはないが時に訪れる「生きてて良かったと思える瞬間」に出会える可能性があるので、生きてることは素晴らしい。今日も流れでやる事をたんたんとやりながら機嫌よく過ごそう。

 ☆夕方(実際は写真でみるより早い時間)まで葉っぱをとって、トレーニングして一杯飲んで寝る、この何ということのない日が有難い。

Dr.824 やるなあ自分(11月15日)

いつもは夜8時までに寝るが、時々夜の会合があって寝るのが遅くなる。昨日も村の協議会の役員会があって寝るのが2時間ほど遅くなったが、今朝はいつも通り4時30分頃に目が覚めた。何時に寝てもだいたい同じ頃に目が覚める、自分の体内時計も大したものだと自分を見直した。これを機会に自分の誇れるところを数えてみると、正確な体内時計を持っているだけでなく、元気に動けている、何でもおいしく食べられる、すぐ寝られる、ブログが毎日書ける、人前で話をするのが苦にならない、一目見ただけで美味しい菓子パンを見分けられる等多くの優れた点を持っていることに気付いた。「なかなかやるなあ自分」って感じだ。探してみると長所以上の短所が見つかると思うが、そういう作業は自分を落ち込ませるだけだからやらない。「短所を直すより、長所を伸ばそう」とは現役時代から言ってきた。生きてるといろいろ嫌なことや心配なこと気が重いことにも出くわすが、反対に嬉しいことや楽しいこと、気分が晴れ晴れすることにも出会える。たまには自分の長所探しも楽しい時間だ。さあとりあえずは、気がかりは出来得る限り後回しや先送りにして、今できることや今日やる羽目になったことでそれほどやるのが苦でないことから始めよう。そうやって生きていれば何とかなるだろう。ただしそうした生き方が出来る状況にあることへの感謝と自分が出来る限りの貢献は忘れないようにしたい。そして時々自分を褒めてやろう。

 ☆以前に主催者の方が送ってくださった講演会の様子。こんなことが好きな自分、「なかなかやるなあ」。こんな自分に付き合ってくださった皆さん、機会を与えてくださった皆さん、ありがとうございます。

Dr.823 一人葉っぱ取り(11月14日)

出かける予定があったが、車で出かける際に多くの人が畑で黒豆の葉っぱを取っているのを見て、予定を変更して午後から葉っぱ取りを行った。これも流れで生きるということか。ともかく正月の黒豆出荷に間に合うように、豆の葉っぱが自然に散る前に強引に取って、その後根元を切って畑で乾かした後乾燥機に入れて、それから雑粒・選別・出荷となる。一連の作業を正月前に行わなければ値段が下がる。昨日は天気も良く気持ちの良い作業日和だった。周りの人はみんな自分の畑で葉っぱを取っているので、見かける人もいない。時折近くの山から小鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。紅葉の進んだ山を背景に一心に葉っぱと向き合い、自分ががんばった後が一目瞭然で達成感もある。時々ならなかなかいい時間の過ごし方だと思うが、なんせ孤独だ。全ての役職を退いたら、こればっかりの毎日が続くのかと思うと不安になる。やはり定年後人生充実の鍵はこの孤独とどう付き合うかだなと思わされた。健康と老後資金があれば、天気のいい日に自分のペースで葉っぱ取り(やその時期の農作業)をすればいい。それはそれで有難いことだが、この孤独とどう付き合っていくのか、今度また時間のある時に考えよう。

 ☆秋景色の中で一人葉っぱ取りをするドクター。これを何の憂いもなくやれるように修行したい。

Dr.822 Have FUNN(11月13日)

冒険教育の大切にしている理念の一つに「Have Fun(楽しむ)」というのがあって、それはそれで大事なことだが、それに加えて「Have FUNN」というNが一つ多い言葉を冒険教育創設者の1人カールロンキさん(故人)が唱えている。これは「Functional Understanding is Not Necessary(機能的な理解は必ずしも必要でない)」ということで、ドクターは「理屈で考え過ぎない(そのほうが面白く生きられる)」と解釈している。人間は機能的な知を積み重ねて進化し生き延びて来たので、本質的に機能的知(理屈)に縛られ影響されるし、それはそれで正しいとは思うが、現代社会を生きるにはそれだけでは息苦しい面もある。理屈は通らなくても、無謀でも、やりたいからやる、好きなことをやるという選択肢があってもいい。あまりに理屈に縛られ行動していると、安全で平穏かもしれないが、それでは人生にハプニングも面白さもない。理屈が通らないことをするのは嫌だという人はいると思うし、それはそれでいい。こうなると生き方の問題のように思うが、昨今の社会はドクターの感じでは少し理屈が勝ちすぎているようで窮屈で生きにくい。少しでも理屈(世の中の大勢の意見)から外れると容赦ないバッシングがなされる。(出来るだけ)人に迷惑はかけない範囲で、自分がしたことには自分で責任をとるという覚悟の基に、自分流に(理屈に縛られないで)生きる人がいてもいいのではないか。「直感で心弾む毎日を生きよう」という呼びかけをするつもりが理屈っぽくなった。ドクターはカールロンキにはなれない、でも一歩でも近づくためにがんばろう。こう言うと「頑張る」っていうのはちょっと違うなと叱られそうだが。

 ☆いろんなことを考えながら地元高城山のふもとを調べるドクター。理屈に縛られないで自由に生きようって言っときながら結構いろんなものを意識しているか。限界を超えろ。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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