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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.956 小休止(5月5日)

雨の休日(こどもの日)、久しぶりにゆっくりしている。昨日までの連休中に何とか田植え準備が終わった。終わっていなかったら、雨でもやらなければならなかったところだった。小休止の時間が与えられたのは有難いことだが、さてどう過ごしたものだろうか。今後のことを考えれば、今のうちに準備しといた方が良い案件は、公私ともに一杯あるが、それがなかなか思うように動けない。自分の行き当たりばったりの性格ゆえだろうか、なかなか切羽詰まらないと動けず、切羽詰まってから動いてバタバタするというのがいつものパターンだ。わかっちゃいるけどやめられない(変われない)というセリフを昔聞いたように思うが、それを地で言っているのがドクターだ。そのくせ、人には「人はいつからでも変われます」みたいなことを言っている。言い訳のようだが、本題の「切羽詰まらないと動けない性格を変える」については上手く行っていないが、副題の「自分の弱点が分かった時に、自分の心を落ち着かせる」技法(考え方)については進歩がみられる。それは「自分の性格を含めた人生をどうするか(どうなるか)は、自分の意思だけでなく自分の人生の展開を主導する大きな流れによっている」と考えることだ。この考えで行くと、自分の性格を変えられないのも流れだから、そによって起こる事態も流れに従って乗り越えて行くしかないと思う気持ちをチョットはしっかり持てるようになってきたということだろうか。この流れ哲学のお陰で、未来を過度に不安に思わずボーっと出来ている。有難いことだ。

 ☆自室の窓から降りしきる雨を見ながらぼーっと物思いにふける小休止の時間を過ごす。昨日の代掻きでは、きれいに田んぼをならすことができず、早く水が溜まって不出来な代掻き跡が見えなくなるのを祈っていたら、今日の雨でそれが実現。結構、流れ人生何とかなっていくものですね。運がいいだけかもしれませんけど。

Dr.955 お元気ですか(5月4日)

昨日も今日も田んぼ鋤(代搔き)が続きます。昨日鋤いた田は8年前に親父が鋤いていて急に体調が悪くなって、その後亡くなった圃場で、そこを命日に鋤くとは、いろんな思いがよぎります。そこへ息子が立ち寄り、少しだけトラクターに慣れさせるために鋤いてもらい、そんなこんなでさらに感傷度が増しました。生きてるといろんなことがあると思いますが、いつ終わるか分からない人生ですが、その日までやるべきこと、やる流れになったことを精一杯やっていきましょう。それが人のためや建設的な仕事ならそれに越したことはないですが、何事にもプラスマイナス両面あり、何が良いことで悪いことなのか決めるのはそう簡単には行かないし、世の中いろいろ複雑に絡んでおり、何の気なしにやっていたことが評価されたり、良かれと思ってやったことが人の迷惑や癇に障ったりと一筋縄にはいきません。こうなったら、コトの善悪に拘り過ぎずに、一見社会的に悪いことでなければ、流れでやることになったことを、その時のやれる範囲でやって行きましょう。そうやって限られた人生、元気で歩んで行けたら良いんじゃないでしょうか。田んぼを鋤きながら、そんなことを考えていたので、適当にしか鋤けませんでした。言い訳ですけど。

 ☆田んぼを鋤きながら、元気で毎日することがある、それだけで有難いことじゃないでしょうか、と考えるドクターと次世代を生きる息子が載るトラクター。息子の方がうまいかもしれない。

Dr.954 連休ですけど(5月3日)

ゴールデンウイークが始まっている。普段忙しく仕事をしている人には、のんびりすることや旅行など非日常のことをするのも大切だと思うが、今年はコロナで様子が違うかもしれない。ドクターにとって5月のこの時期は、現役時代も今も田植え準備の期間だ。友達の中には「連休中休めてますか」と言ってくれる人もいるが、自分の場合は何かやることがあった方が良い感じだ。それにこの4月からやらせてもらっている教育長職は新鮮で、毎日が変化に富んでいる。大変な案件も多いし、『きょういくじょう』で出歩くことも多いので、毎日が非日常って感じだ。というわけで、この連休に農作業をして日常というのか、よくやっていた時間を過ごしているって感じだ。これからの流れで人生がどうなっているか分からないが、出来ることなら人生の終わりまで何かやる事があるというのが自分にとっては良いのかもしれない。忙閑ほどほどが良いのは分かっているが、思い通りにならないのが人生なので、どちらかというとどっちの方が良いかと尋ねられたら、「忙」の方かしらん。いやいや、「忙」って心を亡くすことだと言われるので、それはチョット。「閑」も長閑な日々って感じなら好い語感だが、実際にはやることがないのもチョット。ここはやはり「流れ」に任せるとしよう。

 ☆今日は丹波篠山市の遺族会館の掃除にも出かけた。ドクター家は祖父が満州で32歳で戦死している。祖父の無念はもちろん、父や祖母は苦労したことだろう。平和な時世に暮らす孫だからこそ、「流れで生きる」みたいなお気楽なことが言えるのかもしれない。お気楽な孫だが、祖父や父の分も含めて、平和や「気楽に生きられる日々」を誰もが経験できるように、自分の出来ることを精一杯やって行きたい。

Dr.953 手間を惜しむと(5月2日)

お久しぶりのSAPブログです。教育長ブログとの住み分け・併存を決めたはずなのに、こちらのブログはご無沙汰になってしまいました。その後本業の教育長職務でいろんな案件が持ち上がっていることもあるためだが、これからどうなっていくのか神(仏・宇宙・サムシンググレイト)のみぞ知るって感じです。勿論ベストは尽くしますが、ベストを尽くしたからと言って全てが解決するとは限らないことは、これまでの人生で数多く経験してきた。ベストと言ってもどこまでが本当のベストなのかも分かりにくい。その時の自分としてはベストと思っていても、後から考えたり、もっとがんばっている人と比べればもっとできたかもしれないと思うこともあるが、その時の自分が精一杯できることがベストと思うしかない。その時、自分がどこまで頑張れるかは、頑張る分野も含めて、大きな流れで決まってくるというのがドクターが辿り着いた流れ哲学だ。この考えが自分には合ってるし、この考えで行くとある程度心が落ち着いてくる。

 そんな訳で今回のテーマ「手間を惜しむと(後で困る)」も、田んぼ仕事で、収穫後冬までに一度田んぼを鋤いておくと春の田植え準備の代掻きが楽になるのに、その手間を惜しんだ今シーズンに代掻きに苦労しているというところから来ているが、これも(秋鋤をしなかった)後悔をしながらも出来るだけがんばって(ベストを尽くして)代掻きはするものの、完璧な代掻きができなくても仕方がない(流れでそうなったのだから仕方がない)ということになる。結局、流れ人生哲学は完璧でなくても仕方がないという諦め(決して悪い意味ばかりではない)が根底にある。諦めは執着しないということで、釈迦の教えにも近いと勝手に解釈する。

 ☆連休初日、精一杯代掻きや田植え準備をしたが、急な市役所行や「手間を惜しむと後て困る」人生訓が分かったことなども含めてどこまで田植えに間に合うかは流れとご縁による。「それでいいし、それしか仕方がない」(と思うと心が落ち着く)

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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