Dr.2097 お気楽な人(10月22日)
今朝もテレビで紙兎ロペを見て、ヘラヘラ笑っていると、奥様から「ロペ見てヘラヘラして、仕事に行ける(やる事がある)なんて、お気楽な幸せな人やな」と軽口をたたかれた(ドクター的には褒めてもらった感じ)。
というのも、ドクター目指すところは「お気楽な人」「陽気に日々を笑顔で過ごして、いくらかでも周りの役に立てる人」なので、お気楽そうに見えるというのは悪いことではない(むしろそういってもらえるのは嬉しい)。
人の役に立ったということで言えば、昨日(も)行ったトレーニングセンターで、ロッカールームの鍵穴に残っていた100円玉をフロントに「これありました」と届けたことが頭に浮かぶ。1っ昨日も同じロッカーで見つけた100円コインをフロントに届けたばかりだったので、そこを習慣的に使う人がとり残し癖があるのではと心配にはなるが(スポセンのロッカーは100円入れて使用し、使用後に戻ってくるタイプです)。
本当に、やることがあって、話す人がいて、やりがいがあるという環境は、幸せなことだ。今日もへらへらしながら(もとい、ニコニコしながら)、自分の出来ること、やるべきことを精一杯やって行きたいと思います。
☆少しでもきれいだなと思った景色はカメラに撮るようにしています。失くしたカメラも戻って来たし、幸せです。皆様、自分のプチ幸せを見つけて行きましょう。プチでいいです。プチがいいです。プチ幸せで十分です。

Dr.2096 優しさが大事(10月21日)
若年性認知症の話を聞いて、映画を観た。認知症になっても人生は終わりではなく、当人はできることは自分でやりたいという気持ちが強い。周りの人は認知症の人から、全てを取り上げる(何でもしてあげる)のではなく、「助けてほしい」ということをやっていくのが大事と言うことを学んだ。
映画の39歳で認知症になった人は、家族は勿論、職場、地域の人、趣味の人達、時には初対面の人からも慕われ、あたたかい心で接してもらうのだが、それもその人が普段からやさしく、思いやりの心で周りの人に接していたからではないかと思った。
周囲の人に優しく、真心を持って接するのは、認知症になろうとなるまいと大事なことだ。自分が認知症や病気になった時に優しくしてもらうために、人に優しくするのではないけれど、自分の生き方として周りの人に優しく誠意を持って接していくことの大事さを改めて強く感じた。
認知症でも他の病気でも、誰でもなる可能性はある。病気やできないことを持ったとしても、笑顔で暮らしていける心の整え方をしていきたい。普段から人に優しく、自分が生き易い考え方、行動磨いていきたいと思います。
☆認知症の話や映画を観て、普段からの優しい生き方の大事さを改めて思いました。


Dr.2095 迷ったらやる(10月20日)
昨日は朝から黒枝豆のさや豆取りの合間を縫って、ワラワラ市からの訪問団のグッバイパーティーの挨拶に行った。普通の挨拶(と言ってもドクターの場合は最後のエールはありますが)にするか、空手演武をするか迷ったが、結局空手着を着けての型演武を行った。
迷ったのは、長く空手をやっていないので、人に見せられるだけの演武が出来るかどうかと言うことだった。事前にちょっと練習してみたが、五分五分のような出来だった。
迷ったが、わざわざ空手着に着替えてのあいさつで、例え下手でも、留学生たちに日本の文化を見せたい、楽しんで欲しいと言う気持ちは伝えられるだろうという思いはあって、結局空手演武と最後の「ワラワラ市アンド丹波篠山市のフレンドシップ フォーエバー」「サムズアップ」をやった。
自己満足かもしれないが、やって良かったし、主催者の一人の方からはお礼を言ってもらった。少人数の集まりで、そこで空手演武をしてもしなくても大したことはないが、自分の生き方として、人に喜んでもらいたいと言う気持ちは大事にするということと、迷ったらやるということを再確認できたように思います。
☆今回演武中の写真はありませんが、迷ったらやる、やって良かったと一人安堵するドクターです。自己満足かもしれませんが、それも大事に生きて行きたいと思います。

Dr.2094 欲望を捨てられるか(10月18日)
著名な俳優の西田敏行さんが亡くなった。10歳も違わないと思うと、自分の人生も後そんなに長くないと思ってしまう。この裏には、いつまでも元気で長生きしたいという欲望と言うのか執着があるのかな。
この欲望と執着が苦の元であると仏教などでは言われている。逆に言うと、この欲望と執着を無くすというのかコントロールできると、毎日を不安なく過ごせる。しかし、人間、欲望を無くすというのは簡単ではない。
欲望そのままで、機嫌よく生きられればそれにこしたことないが、これがなかなか難しい。日々を不安なく上機嫌で生きられる、心の整え方を模索してきたドクターとしては、これにはやはり欲望・執着を何とかしなければと思っている。
欲望・執着も一概に悪いものでもなく、これがあるから生きるエネルギーにつながるという見方も出来ないことはない。何事も度が過ぎるとよくないというのは、ここにも当てはまるように思うので、欲望や自分の思いにとらわれ過ぎず、日々を機嫌よく生きられる道を探っていきたい。
☆復活したカメラで撮った昨日の風景。欲望に振り回されず、機嫌よく過ごせましたけど、西田さんの訃報で、この先の不安が出てきて、まだまだ悟りの道は遠いって感じです。自分の限界にも目を向けながらも、それでも機嫌よく生きる道探していきます。それが今のところは、流れとご縁を信頼して、感謝と貢献で生きるです。いつもと同じですけど。

Dr.2093 何もしないで正解(10月17日)
3~4日行方が分からなかったマイカメラが見つかった。先週の金曜日に使った記憶はあるものの、翌日のドクターブログ執筆時にカメラがないのに気付き、ブログ写真は過去のもので勘弁してもらって、多分職場にあるだろうと思っていたのが、連休明けに出勤したものの見つからず、焦りはしたもののそのままにしていた。
それが昨日職場で使う車の中にあるのを見つけた。もう少し見つからない時間が続けば、新しいカメラを購入しなければならないかなと思っていたところの発見だった。相棒カメラが見つかって良かったし、慌てて何かをしないことの値打ちにも気づかせてもらったので、ちょっとこれについて書いてみます。
即反応や即行動することも大事だということは分かっているが、場合によっては何もしないで成り行きを見るということもアリということだ。今回も慌てて、新品カメラ購入に動いていれば、新品と新品からまだそれほど使ってないカメラの二つ持ちになるところだった。
即動くのも、しばらく様子をみるのもありということで、この事態はどっちで行くのか、その見極めが難しい所だが、ここは成り行き、流れに任せるとしたい。世の中には、どちらもありと言うことは多いので、結局は流れとご縁に任せるということになるとすれば、ドクターこの頃のいつもの主張「流れとご縁に任せて日々を送り、あれこれ悩まない」ということになる。
いつもは早反応で動くことの方が多いドクターですけど、今回のカメラの行方不明事態では、なぜかもう少し様子を見ようということで即行動(カメラ購入)に移らなかった。このなぜか即行動にうつさせなかった何かが、大きな意思の表れ(今回の事態は小事案ですけど)の象徴のように思います。
☆カメラ発見後に即撮った昨夜の満月と駐車場のライト光。カメラが見つかろうと、5年前の写真であろうと、そんなに変わり映えしないですね。即反応も、しばらく何もしないで様子見反応でもそんなに変わらないのかも。
