Dr.792 高年研究(10月19日)
相変わらず定年後の生き方を研究している。研究の中で「高齢者」より「高年」(中高年の高年)という表現の方良いと学んだので、今後は高齢者と言わず高年と言いたい(高年者の特徴の一つである記憶力の低下があるのですぐ忘れるかもしれませんが)。60代は心身ともに低下はあるもの、本格的な高年化・心身機能の低下は70代以降らしいが、何でも人より早くからその世界に入る傾向のあるドクターとしては、60歳の定年から定年後の元気な生き方について研究している。酒屋立ち飲みや温泉・サウナ通いでも周りは自分よりもみな御年輩という時期から始めている。それはともかく、定年後高年の充実した生き方は結構奥が深く、早くから始めたのは正解だった。今回の学びは高年世代は「がまんしない」ことと、「することがないこともストレス」なので何でも用事を適度に作ることが大事ということだ。また「孤独」や「心配」は生きている限り誰にでもあるので、それらを否定しないで自分流の付き合い方を見つけることも大事だとも学んだ。これらの中には既に自分でも気づき実践していることもあるが、やはり書籍で有名な研究者が言っている(書いている)と心強い。安心して自分の生き方がこれで良かったのだと確信できる。「何でも知ったことはすぐ実践する」というのもドクターの特徴で、今朝読んだばかりの「高年充実のヒント」を早速実践してみるが、この処方箋が良いかどうかは自分を実験台にしばらく続けてみて、後日結果を報告したい。とりあえずは流れに任せて我慢できないほど嫌でないことをやりながら、一日一日を大事に行きたい。
☆この頃流れでやっているのは黒枝豆の収穫だが、これもやり過ぎるとストレスになる。ほどほどにしたい。愛用のカメラの蓋がへこんで完全には作動しなかったが、何となく使っているうちに直っていた。こんな感じで高年期の心身も回復したらいいのに。あまり気にしないのが良いのかも。


Dr.791 元気もらいました(10月8日)
所用があって神戸市の特別支援学校を訪ねた。そこの教頭をなさっている方はかつてドクターが勤めていた学校の先生だった。昔話に花が咲いて盛り上がった後、お別れの挨拶の時にその方が「教頭の仕事は大変でダウンしそうだったが、今日話をして元気をもらいました。これでまたしばらく頑張れそうです。」と言われた。ドクターと話をして「元気がもらえました」という人は、昔は時々あったが、最近ではとんとんとご無沙汰だった。それだけ最近の自分は元気がないということだろうか。久しぶりに「元気もらいました」の声を聞いて、自分の売りは人に元気を与えることだったことを思い出した。だからと言って、空元気では与える方も与えられる方も空しい。元気の種類も年齢とかその時の状況によっていろいろあるから、今の自分らしい元気さを見つけたい。ここも自然体で現在のドクター流の元気を届けていこうと思うが、どうも最近は人から元気をもらうことの方が多いような気がする。それと先の会話は、昨今は定年後の不安をどうすれば払拭できるかばかりを考えていたドクターに、現職の大変さも思い出させてくれた。定年退職後に元気で日々活動で来てるだけでもありがたいことを忘れないように元気に行きたい。
☆ドクターの家に仕掛けた檻にかかったタヌキの親子。タヌキを捕まえるために仕掛けた罠ではなかったのに2匹もかかったのでオロオロするドクターに、檻に詳しい村の人が人里離れた山中に放してくださった。自分の時間を人のために使う姿に元気をもらった。タヌキ親子も元気に山に帰って行った(そうだ)。

Dr.790 知らない方が良かった(10月6日)
いろいろ昔を回想していて(何でか分からないけどこの頃人生を回顧することが多い)、今年亡くなった妻の母のことが思い出された。お義母さんは会えばいつもドクターのことを褒めてくれていた。実の母も褒めてはくれるが、注意を受ける点も多々あり、感情は揺れ動く。お義母さんがいつも良いように言ってくれて感謝していることは妻に話しておかなければいけないと思い、「お義母さんは私(ドクターのこと)のことをいつも褒めてくれ、悪く言われたことはなかった」としんみりと話すと、妻はあっさり「そんなことはないで。すぐ落ち込むとか悪口も言ってたで」と返してきた。えっお義母さんが自分の悪口を言ってた。これは聞かなかった方が良かったと思ったが、母子ともに「ドクターはお気楽で、落ち込むときもあるけど直ぐに機嫌よくなり全体としては調子よく生きている」と思っているということだから、ちょっとホッとした。このように世の中には知らない方が幸せ、知らない方が良かったということも多々あるので、一つのことを掘り下げる探求心も時と場合による。この頃自分に普通にみられる、あまり深く考えないで流れに任せて大雑把に生きるというのも結構良さそうだ。
☆この頃流れに任せてうろうろしていると、いろいろ奇麗な景色に出くわす。やはり知らないで良いことは知らずに大雑把に生きるのも良い。



Dr.789 無常(10月5日)
世の中のもの・ことは無常である。これは仏教の教えでもあり、科学的にも正しいのではないかと頭では分かっていても、直ぐに忘れて変わらない状態を追い求めてしまう。記憶力も体力も無常であるのに、ずっとそれらが最もよく働いていた時分が続くと思ってしまうのか、ちょっと動くと息が切れたり直ぐ前のことを忘れてしまったりする現実を嘆いてしまう。「無常」が心底理解できていたら、変わる自分も世の中も当然のこととして心穏やかに過ごせるのにとは思う。昨日、息子が後期の大学生活を送るために関東の下宿先へ帰って行った。長く息子が家にいる状態が続いたので息子が家にいない寂しさで一杯だが、彼の青春のためには家を離れて大学生活を謳歌した方が良い。また帰省して一緒に住んだり、就職で家を離れたり、Uターンで戻ってきたりするかもしれない。ここでも無常の真理が働くものなのだろう。何度も言うけど「無常」は頭では分かっていても、それがなかなか染み込まず一喜一憂してしまう。今後は日々「無常」を見つめ、「無常」に慣れるようにしたい。無常は寂しかったり、マイナスのものではなく、「心配」や「怖れ」や「嫉妬」「怒り」などの感情もずっとは続かいないことも意味している。どこまで出来るかは分からないけど、とりあえず「無常」思考で上機嫌を維持したい。続かないかもしれないですけど。
☆今年は一本しかないドクター栗の木が豊作で、沢山とれたので初めて「丹波篠山市場」へ出荷した。こんなにとれるのが毎年続くと誤解してはいけない。




Dr.788 隣が気になる(10月4日)
HAP(ひょうご冒険教育)で兵庫教育大生の体育系選択者を指導した。ドクターとしては先生や先生の卵に「教え過ぎてはいけない。教え過ぎは子どもの学びを奪う自己満足だ。敢えて教えない勇気を持とう」みたいなことを伝えるのを生きがいの一つと考えているので、大学生を指導するのは願ってもないことだった。気合を入れて「教え過ぎてはいけない」ことを教えた。自己矛盾には薄々気付いているが、人は直ぐには変われない。しかしこれも「人は何時からでも変われる。自分を変える勇気を持とう」と参加者に向かっては語っていた。これも自己矛盾だ。どうもドクターの特徴として、参加者に語っているようで一番は自分に言い聞かせるという傾向があるようだ。さらに当日は2班に分かれての指導だったが、自分の班の学生が隣の班がやっている活動や盛り上がりを「向こうは面白そう」と言わんばかりに関心を示すのが気になった。これも「人は周りが気になるが、それを克服して他と比べる気持ちがなくなれば快調に生きられる」と普段語っていることと矛盾している。しかし最近「自分の嫌なところも否定しないで、負の感情を丁寧に扱いそれをなだめていけば、その感情は大人しくなる」ということを学んだので、今実践したところ、少しはましな気がする。ドクターも少しは進歩しているかもしれない。
☆先生の卵の学生2チームが嬉野台生涯教育センターにやってきた。隣の班が気になりながらも、精一杯の指導はやれたかな。


