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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.1168 人に言っておきながら(1月20日)

 常々、人に言っていることは自分にかえってくる、だから発言には責任をもって自分も実行できることでないといけないと思っているが、時々、人に言っておきながら自分は出来ていないという失態をやらかしてしまう。

 昨日の失態は、「人は言った通りには動かない。だからアドバイスは当人のやる気が出るようなものでないと、注意や叱責(これはドクターはやらないが)だけしても意味がない」というものだった。

 これは自分の思いだし、時折は人に話すこともあるが、昨日はつい何気なしに「もっとこうされた方が良いのでは」と言ってしまった。言われた方としては、「自分は出来てないのか」と落ち込むだけだ。その方は落ち込まれていたと後刻人伝に聞いた。申し訳ないことをしてしまった。

 自分の何の気なしの発言で、人のパワーを奪ってしまったのだ。これを反省して、今後は人に元気を与えられる言葉がけや笑顔を気を付けたい。

 まだまだ未熟な自分を痛感して自分の元気も無くなってきたが、元気ない姿を人目にさらし、周りの心配や同情を呼び起こすのも本意ではない。ここは無理してでも元気を出し、再発防止に気を付けるとともに、陽気で上機嫌なドクターで行きたい。

 ☆毎朝の掃除のように、毎朝自分の弱さと至らない点を掃除して、元気で行くことを心がけよう。ご不快な思いをさせた皆さま、どうもすみません。(「皆様って、何人もおるんかい」心の中のツッコミ)

Dr.1167 存在意義(1月19日)

 昨朝は母の再入院準備でブログ更新が出来ませんでした。病院への送りは妹がやってくれたが、出発前に久しぶりで母親と兄弟の時間を束の間過ごせた。母親にとって、子どもは二人なので、自分達が子どもとしてできる最大限のことはしたい。子どもとしての役目は自分達にしかできない。

 話は変わるが、昨日かつて登録していた生涯教育組織のスタッフから冒険指導の依頼があった。この頃は時間がとれないのと、謝金をもらっての指導はできないということでお断りしたが、自分を見込んでの依頼は嬉しいことだった。

 仕事上、講演やお話し、挨拶、時に冒険教育の手法で指導することもあるが、これらは多くが職務上の依頼であって、ドクターの個人的な力量を見込んでのものではないことが多い。

 その点、この度の生涯教育サポート組織からの冒険依頼や子どもとして親に出来ることなどは、自分にしかできないことで、自分の存在意義と言うのか、自分の存在価値を認めることが出来る貴重な機会だった。

 職務としての役割も大事だが、職務はいつまでもあるわけではない。職務が無くなっても、自分の存在意義があるようなことを大切にしていきたい。

 ☆週明けの市役所周りのごみ拾い。職務上のことは何をやっても、どちらに判断しても、必ず反対意見があるが、ボランティアごみ拾いは誰からも批判されない数少ない自分の存在意義かな。

Dr.1166 つながる(1月17日)

 丹波篠山市の新春駅伝大会に参加した。参加と言っても大会関係者としてだ。昔からいろんな立場でよく参加していた大会だ。昔から走っている選手も多く、多分自分より年上と思われる人もまだ選手で出ている人もいる。

 齢を取っても走っている人がいることはいるが、多くのチームでは高校生や大学生など若い力が参加している。中心となっている壮年メンバーも様変わりしている。

 中心選手層は変わっても、地域の人でチームを作って、バトンを繋いでゴールするという新春駅伝は繋がって行われている。

 これは駅伝だけでなく、あらゆる行事、行事だけでなくあらゆる事象に共通のことだろう。前の世代から次の世代に受け継流れ、繋がっていく。こうして人類や生物は生き延びて来た。

 そうだとすると、今自分がどんな位置にいるのかを意識しながら、しっかり自分の役割を果たして、繋いでいきたい。いつまでも出しゃばらず、適切な時期に次の世代に。決してしがみついたり、こだわったりしないで、たんたんと今の自分に与えられた役割を自分も周囲も気持ちよく送れればと思っている。

 ☆バトンが繋がれるのを見守りながら、「つなぐ」役割について考えるドクター(の影)。

Dr.1165 出来事(1月16日)

 ポカンとした一日だと思って始まった昨日も、さまざまな頼まれごとや情報の到来、その日にやらなければならない出来事であっという間に一日が終わった。

 「出来事」をよく吟味すると、さまざまなきっかけで出て来ることということだと分かる。自分の内側や外側からのいろんな原因でやるべきことが出て来るという訳だ。

 出来事が多くあると、それはそれで何をやるかと悩む問題は緩和される。そこに自分の意思がないと主体性が欠けるようにも思われるが、そこは根本的な人生観と似ていて、そもそもが自分がこの世に生まれて来たのも自分の意思ではなく、諸要因によって生かされ、自分の意思も働かせているように見えるけれども、自分がこの世で果たすべき役割を果たさせてもらっているというドクター流人生観から言うと、その日の自分にやってくる様々な出来事は自分が精一杯やって行くべきことだということになる。

 ということで、自分の意思もそれを超えた天の意思も入ってやるべきことが到来しその日を、そしてそれが続いて毎日を歩んで行くことになる。

 結局その繰り返しで人生が成り立っていくのだろう。ともかく今日の出来事を精一杯やって行きます。

 ☆昨日やって来た出来事の一つが、車の汚れに気が付いて、バケツ水でゴシゴシやりました。今日もこれからも自分の使命・やるべき出来事に精一杯笑顔を忘れず取り組みます。皆様もご自分の出来事にご一緒に取り組んで行きましょう。

Dr.1164 ポカンとした一日(1月15日)

 久しぶりに予定のないポカンと空いた一日の朝を迎えた。日差しのない寒い日で農作業にも適さない。

 いくつかの書類を作成した後どうしよう。母が来週再入院と言うことになったので、母とゆっくりできるのは今しかないが、そうは言っても一日中一緒に居るわけにはいかない。いくつかのやる事をどう配分したら好い一日になるのか考える。考えている間に時間が過ぎていく。

 こんなとりとめのない時間の中にいると、忙しくても何か用事(やるべきこと)がある方が良いという気にもなる。そうは言っても、最近の職場のように重圧の中でやるべきことだらけというのも大変すぎる。勝手なものだ。

 ポカーンとした時間の中で、何事にも終わりや引退があるということを考えた。オリンピックなどで活躍した選手の引退宣言や元首相の死去のニュースに触れたからかもしれない。

 終わりや引退は寂しいことだが、人間誰にでも訪れる事実だ。終わりや引退があるから、いつまでも出来るわけではないので、現役中や出来る間に今そのことが出来ることの有難さを噛みしめながら精一杯打ち込む。それが一番だとは思うし、その通りだと思うが、これがまた勝手なものですぐ見失ってしまう。ポカーンとした時間、なかなか対処方法が難しい。

 ☆ポカーンとした時間をどう機嫌よく過ごすかを考えるドクター。これは結構前からの大きな課題だったのを思い出した。思い出す時間がないほど忙しい方が良いのかな。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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