Dr.258 流れに乗る(1月27日)
無理をしないで流れに乗って生活することを信条としている。人生とは自分の狭い思いや計らいを超えて、流れからやる羽目になったこと(今日で言えば地域の福祉講演会で講師に謝辞を言う役)や生きていくうえでやらなければならないこと(食事をする、服を着替える、ボーっとする、「おはぎのこしあんの方を食べたな、あんたが食べるのは粒あんの方や」と妻から叱られる等)を時間の流れ順にたんたんとやっていくだけのことだ。そう思って暮らしていたが、昨日のテニス全豪オープンでの大坂選手の試合を見ていると流れに乗るだけでなく流れをつくることができそうな気がしてきた。調子のよい流れの時はラリーでもサーブでもどんどん決まって簡単に勝てると思いきや悪い流れでどんどん相手に得点を取られる。このままやられてしまうのかと思いきや、辛抱してゲームをつなぎ、また良い流れに戻していく。大坂選手の戦い方を見ていると、誰か(神か運命か)が敷いた流れに乗ってゲームを進めていくというより、流れ自体を自分で作り出しているように見えた。しかし凡人がいくら自分で良い流れを作ろうとしても無理なので、それを諦め、たんたんとやってきた流れに乗っかって気楽に生きる方が良いと悟ったはずだった。いやいや一時的な出来事で折角これまで苦労して掴みかけているお気楽な生き方の極意を手放してはならない。もともと普段テレビをあまり見ない(正確にはチャンネル権がない)ドクターが夕方のゴールデンタイムにテレビを見たこと自体が流れのなせる業だ。決して自分の意志や家庭内地位が向上したからではないことを忘れないようにしたい。
☆いつもはこんな景色の村がこんな(雪景色)になって、こんなこと(除雪作業)をしなければならないのはすべて自力や自分の意志ではなく大きな流れのせいだ。流れに任せて気楽に生きよう。
Dr.257 飄々と生きる(1月25日)
久しぶりに禅僧の本を読んで「飄々(ひょうひょう)と生きる」ことを思い出した。多難多事でしばらく仏教関係の本を読んでいなかったのが最近の不調の元だったようだ。他人の活躍や他人からの評価を気にし過ぎて「我関せずお気楽に生きる」ということを忘れていた。「人生に意味はない」「人生は壮大な暇つぶし」「夢・生きがい・日々の充実・なりたい自分等にとらわれず飄々と生きる」という折角つかみかけていた人生の指針を手放すところだった。ここは一つ瞑想でもして、心配やとらわれを脇に置いて、たんたんと起きる事態に対応しながら日々を心安らかに生きていくとしよう。いい感じの心境になってきたが、適当な性格ゆえ、折角のにわか悟りも長く続かないのではないかと心配されるが、起きてもないことを今から心配するとは、真の悟りへの道のりは遠い。
☆俄か瞑想で成り行き悟りを得ようとするいい加減ドクター。当分悟ったり迷ったりが続きそうだ。
Dr.256 不調発信(1月24日)
フェイスブックでもブログでもよく発信されるのは調子のよい話が多い。どこそこへ行っただのだれそれと会っただのなにやかやと面白いことをしただの、そりゃ発信する方は気持ちいいだろうが、毎度毎度知人の調子のよい話ばかり聞かされる(正確には見さされる)受信者はどんな思いだろう。特に自分が何をやってもうまく行かず元気がない時など他人の上手く行ってる話は正直あまり歓迎ではない。こんな根性の悪い意見も言ってみたくなるほど、最近のドクターは調子が悪い。特に身体のどこそこが悪いということではないが元気が出ず、気持ちもウキウキしてこない。特に毎日の生活でも面白いことがあるわけでもなく、誰からも心ときめくようなお誘いの連絡があるわけでもない。今朝も日課の早朝ランニング中に雪交じりの向かい風が吹いてきて、傘でしのいだが抵抗で前へ進みにくい。帰りは反対方向なので風に背中を押してもらう格好になったが、これも帰りには頼りにしていた風が止まってしまったと訴えて不調日常を伝えるネタにしたかったのに思うようにはいかなかった。こんな元気がない時には誰か不調の出来事を発信してくれないかという気になる。不調の人がいることが分かれば同病相憐れむというのか、あの人も大変そうだから自分も何とかやっていかなければという気持ちになれるだろう。どうか皆さんSNSで調子のよい話ばかりでなく、不調の話もやりましょう。こんな呼びかけすること自体かなり不調か。
☆ブログ発信も滞る不調の中、恐竜の里で開かれた会議に立場上出席したが盛り上がりに欠け、自撮り笑顔もどこかひきつっている。人間生きてるとそんなに調子の良いことばかり無いのが当たり前のはずだが、SNS発信では調子の良い話題ばかりが多すぎると苦言を呈するこれまで「絶こうちょう」とか自称していたドクター。
Dr.255 裏方(1月22日)
篠山市の新春駅伝大会で交通整理の裏方を行った。かつてはこの大会に地元チームの選手や監督として参加していた。多くの方が顔見知りで、会う人会う人「今日は走られないんですか」「大会役員としてテントにおられるんじゃないんですか」等と声をかけてこられ、「交通整理です」と言うと意外という顔をされる。一つの組織や行事には表方もいれば裏方もいて両方とも必要だ。これまでは表方をすることが多く、「裏方の重要性」を説きたがる人には、「もちろん裏方の重要性に気付くことは大事ですが、表方だって誰かがやらなければならないわけで、裏方と同じ割合で大切なんですよ」と言ってきた。今回慣れない裏方をやってみて、裏方も経験してみるのはいいことだとは思いながらも一抹の寂しさを感じた。やはり人には向き不向きがあるということだろうか。自分は表向きだと公言するほど厚かましくはないつもりだが、この寂しさは何なんだろう。定年後は裏方を務めることも多いだろうから、今後は表であろうと裏であろうと任された役割を楽しくその場にふさわしい態度でこなせる人間を目指したい。
☆多くの人が参加する開会式には背を向け、裏方の交通整理員を務めるドクター。でも一応写真は撮ってもらう。裏方に徹しきれない中途半端な裏方。裏方道を究める道は遠い。
Dr.254 野外活動フォーラム(1月21日)
全県野外活動フォーラムに参加した。兵庫県下各地で野外活動に携わっておられる皆さんがキャンプ関係者を中心に集まった。若者の世代が活動に参加しないとかシニア世代が元気だとか、キャンプで婚活だなどが話題に上がった。ドクターは前々からの思いである「学校教育に体験学習の考え方を」「学校の先生に失敗も含めて子どもの自主性・主体性を優先して見守る視点を」ということを訴えた(と自分では思っているが「昼食の味噌汁のお代わりがなかった」という声だけが聞こえたかもしれない)。そこでの収穫としては、「体験をどのように解釈するかと言う力が大事だ」という考え方を得たことだ。同じような(野外)体験をしても、辛いと感じただけで終わってしまう子どももいれば、何とか出来るようになりたいと感じる子どももいる。体験を積み重ねて、体験から自分の人生を豊かにする学びや癒しを惹きだす考え方(心の使い方)を身に着けることが大切だということだ。これは野外活動に限ったことではない、自分の人生で起こる様々な体験(特に辛い体験)に応用できる。早速ドクター自身の思い出しても辛い最近の体験に応用したい。
☆熱心にフォーラムに参加する皆さんとフォーラム中にこんな写真を撮る不謹慎なドクター。でもお陰様で自分の人生を軽くする学びを得ることが出来ました。この学びで辛い体験を乗り越えたい。