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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.273 何もない一日(2月15日)

フェイスブックなどのSNSではみなさんの元気な姿や面白そうなイベントに参加している姿が満載で、定年後特に心ときめくようなことのない特別なことが何もない日を過ごす者としては寂しいような取り残された感を抱くことがある。でも一方新聞やテレビのニュースでは思いげけないトラブルに遭遇したり、事件や事故に遭われた人の話が報じられている。人生には輝くときもあれば失意の時もあるということだろう。調子のよい時に奢らず、不調の時にも絶望しないように心を整えたい。むやみに他人をうらやましがらず、自分の恵まれたところに気付き感謝の心を忘れないようにしたい。とりたてて心ときめくことがなくても、何もないこと(「何もない」と思うということはとりたてて悪いことがなかったということであり、悪いことはあってもそこそこで済んだということだから)の有難さを感じられれば、心暖かく過ごすことが出来る。何もないといっても生きて行く上でのやるべきことは沢山あり、人のためにやれることに取り組める時間もあるということだから、それらを一つ一つ丁寧にこなしながら時を歩んで行けばよい。そういうことだとは思うのだが、また欲や迷いがやってきてなかなか悟りきれない。
 ☆何もない日の何と言うことのない景色の中で変わり映えしない自撮りをするドクター。でも、こんな何もないのどかな日を送れる幸せを忘れないようにしたい。 

 ☆何もない日常、特別でない時間の中で時々嬉しい時間(カモメの飛翔など)に出会える。


















Dr.272 思いがけない幸せ(2月13日)

この「ドクターのお気楽な毎日」ブログは、校長定年後ドクターと名乗り冒険教育指導者として生きる筆者が、どうすればお気楽に機嫌よく毎日の生活を送れるかの気付きを得るために奮闘する姿を赤裸々につづったものだ。人間の一生は何も手当しないで放っておいてお気楽に暮らせるほど甘くない。そこには考え方や毎日の生活の仕方のコツと言うのかお気楽生活へのヒントが必要だ。今回のヒントはお寿司屋さんで起こった。寿司屋と言っても回らない寿司ではなく、回転寿司屋でしかも今SNS等で話題のチェーン店だ。そこへドクター一家は子どものお祝いを兼ねて家族で夕食に来ていた。最近では滅多にないことでそのこと自体が幸せなことだったが、そこでもうすぐ高校を卒業するかつての教え子に出会った。彼女はドクター(当時は絶こうちょう)校長のことをすごく懐かしんでくれ、卒業式に出席すると伝えると本当に喜んでくれた。こんな思いがけない幸せに出会えるのも退屈な毎日を生きる原動力になる。しかし思いがけない幸せを度々期待してはならないし、予期できる幸せでは「思いがけない幸せ」にはならない。「思いがけない幸せ」は「思ってもいなかった」だけに幸せ度は倍加する。これまでの人生経験から「思いがけない幸せ」は滅多にはおこらないが何か月に一回ぐらいは必ず起こる。今回はさらに彼女と一緒にいた私立高校3年生の友達が中3の時に参加したオープンハイスクールでドクターがあいさつ時にマイクコードに躓いてこけかけたのを覚えてくれていた。おっちょこちょいの落ち着きのなさも役に立つことがある。こんなことがあるから毎日が毎日輝いていなくても生きる甲斐がある。新たな気付きがもらえた空いていた回転ずし店内だった。
 ☆高3教え子に思いがけなく出会えて喜ぶドクター。写真は彼女の友達が撮ってくれた。最近自撮りが続いていたので久しぶりに人に撮ってもらう幸せも感じられて嬉しかった。






Dr.271 これからが口銭(2月12日)

まちの本屋さんに雑誌「プレジデント」を買いに行った。『毎日が楽しい「孤独」入門』が特集されていたからだ。買って早速読んでみると、いろんな有名人が「親子仲良く、家族一緒が幸せと言うのは幻想だ」とか「人生後半は一人暮らしを楽しもう」「面倒くさい人間関係から解放される良い孤独を楽しもう」とか、主張は良いけどどれもなかなか実践やそう考えるのが難しいことばかりが書かれている。ドクターはそれよりも、「孤独にどう対処したら良いかのヒントを得るためにこの本を買いに来ました」と言ったときに、88歳だという本屋のお父さんが、「何を情けないこと言うてはりますねん。定年後はこれまでがんばってきたご褒美やさかい好きなことしなあきませんで。人生これからが口銭(こうせん)ですよ」と言われた言葉が心を打った。口銭は仲介料という意味のようだが、本屋のお父さんが言おうとされたことは、これまでは家族のために仕事を頑張ってきたのだから、これからは自分のために好きなことをやりなさいという意味だ。自分としてはこれまで家族のために自分を犠牲にしてがんばってきたという自覚はないが、まあ折角の先達のお言葉を大事におっしゃるように生きたいとは思うが、問題は自分の好きなことやりたいことがそうないということだ。さあどうしよう。
 ☆この本をまちの本屋さんに買いに行って「人生これからが口銭」の言葉をいただいた。やりたいことはそうないが、毎日スポーツセンターでトレーニングできる健康と環境はありがたいと思う。毎日元気なのは幸せだ。










Dr.270 また写ってしまいました(2月11日)

篠山市長選の報告会に行って、また市長の後ろでテレビや新聞に写ってしまった。「また」というのは前回去年11月の市名変更に関する出直し市長選で市長の後ろで「ガンバロー」と笑顔で叫んでいるところが写って、あの時は全国的に注目されていたので全国ネットで中継されたから、他府県の人からも「映ってたな」と言われたりした。写りたくて市長の後ろに行くわけではないが、記者の方から「講演会の人後ろに立ってくださいと」言われて前の人に付いていったらたまたま中央で市長の後ろだったというだけのことだ。実は昨日朝の出陣式の撮影でもたまたまみなさんに付いて出たら、市長の後ろだったということもあった(これは新聞には出なかったが)。この時は「自分は中央に立って目立つ宿命かもしれない」と思ったりしたものだ。正直に言うと昨日夜の市長決定報告会(無投票だったので)では、ちょっとだけ真ん中を意識した。しかし立ち位置はねらってもその通りになるものではないし、中央に立ったからと言って必ず新聞に載るということではない。そこにはやはり偶然や流れが影響する。普段の日常生活から「流れ」や「定め」というのを大事にするドクターとしては、写真の立ち位置同様自然な流れで真ん中に行かなければならない時には真ん中にも立つし、流れで端の場合は端に立つ。自分の意志を入れ過ぎない生き方がお気楽な生き方につながると思っている。
 ☆市長の後ろで手を挙げている姿がまた写ってしまったドクター。ちょっとだけ写るのを意識した今回は、「自然な流れで水のように生きる」生き方に反していてちょっとだけ居心地が悪かった。でもまあいいか。この気にしない生き方もドクター流だ。

Dr.269 信号で止まらない(2月9日)

この前目的地へあまり早く着かない方が良い状況で車で向かう機会があって、赤信号に引っかかって時間がかかる方が良いのにと思いながら運転していると、憎たらしいほど信号で止まることがなかった。いつもは急いでいるので、どうか赤信号に引っかかりませんようにと念じながら運転しているが、その場合はなんで自分の前でばかり信号が変わるのかと思うほど、寸前のところで赤信号に変わり車が止められることが多い。これはどういうことだろう。多分実際には急いでいようと、遅れた方が良いと思っていようと信号にひっかかる頻度は統計的には同じ確率だとは思うが、精神的な余裕がある場合とそうでない場合での感じ方が違うということだろうか。これは良いことに気付いた。これからはこの信号教訓を活かして、「別に長生きしなくても良い」「定年後はしょぼい生活でも良い」「家庭生活が幸せでなくても良い」「孤独で退屈な毎日ほどすばらしい」と思って生活していこう。そうすればきっと信号効果で嬉しいことがいっぱい起こるだろう。でもこの信号思考は見え透いていてすぐに本心を見透かされそうだ。
 ☆久しぶりにスーツのズボンを履いたらお腹周りが窮屈でしかたがない。ここも信号思考で「少し太っ腹でも構わない。もっと太っ腹の方が年相応で恰幅がいい」と考えて乗り切ろう。こんなんで乗り切れるか。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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