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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.891 やっぱり流れに任す(1月26日)

ちょっと悩ましい事態に遭遇している。悩みや苦は結局自分の思い通りにならないと起きるということだろうか。ドクターの人生哲学である「流れに任す」ということは、仏教的に言うと「縁起」(すべてのことはつながりの中で起こっている:ドクター解釈)や「空」(結局こだわってはいけない:ドクター解釈)ということかもしれない。ともかく、いろんなご縁でやってくる出来事に流れに従って流されていく「流れに任す」哲学の奥義に近づくと、いろんな悩みから解放される。時々「流されてるだけでいいのか」という疑問が湧き上がることがあるが、そこで自分の意思とか大義とかを持ち出すと生き辛くなる。現在「ちょっと悩ましい状況」にいるということは、まだ自分を捨てきれていないということだ。でも若い時よりは悩む程度は深刻にならずに助かっている。それだけ「流れ」哲学が身に付いてきたと言うことかとも思うが、まだまだ完全ではない。この中途半端が自分の持ち味とも思うが、中途半端ながら少しは生きやすくなってきたのかな。そういう訳でまた流れに任せた人生を流れが終わるまで続けたい。人生の終わりまで流れに任せられるか、ここはもう一段の修行が求められている。

 ☆とりあえず定期検診では現在の健康状況でやって行けるということだが、この先の状況は流れに任すしかない。勿論健康には気を付けるが、気を付けていたからと言って永遠に生きられるわけではないんですよね。

Dr.890 ブログの変遷(1月24日)

久しぶりにSAPのHP冒頭を見てみると、「・・今後は議員としても冒険の心(勇気と柔軟な発想等)で様々な市の課題にチャレンジして行きます。活動の様子はほぼ毎日更新ブログ『丹後まさとしの絶こうちょう日記』等でお伝えしますので、ご一読ください。」とある。この決意は嘘ではないし、議員活動もボツボツ(すみません)はやってるが、このブログで議員活動に触れた部分はあまり書けていない。確実に守っているのは「ほぼ毎日更新」ぐらいで、内容は定年後の充実人生のヒントを中心に、自分が考えていることや思いついたこと、人の話や本で読んだことから触発されたことを書いている。これも退職後の人生に悩む市民も多いはずだから少しは市民のための活動だと言えばいえるかもしれないが、やっぱりちょと無理があると思うので、これからはこのブログは公的仕事の発信とは切り離して、一個人ドクター丹後のその日(あるいは前日)の思い綴りと改めたい。いわばこのブログ当初の「ドクターのお気楽な毎日」に戻る感じで、実際にはもう既にだいぶ前から実際の中身はそうなっているのに看板を合わせる感じだ。ブログ自体は現職時代の「校長先生絶こうちょう」も含めて、もう何年も書いているが、結局毎日のことなので地が出るのが当然で、余所行きや無理は通用しないということが今になって分かったということ。今更ながら、冒頭のリード文と中身がずれてしまっていることをお詫び申し上げます。お詫びと共にこれから自由に思いついたことを書くという内容がどのようなものになるのかちょっと楽しみな気もしています。でもまあ結局はこれまでと同じような流れでダラダラ同じような文が続くのだろう。こんなんで良ければ今後もご愛読お願いいたします。

 ☆今日は久しぶりに、市の玄関口駅前の活性化のために現地を見に行ったり、営農組織維持発展のためのアンケートに答えたりしていることを明らかにします。これはこれで宣言と違いますよね。

Dr.889 何をしたいのか(1月23日)

パソコンアプリを使って遠隔で講師登録している団体の面接を受けた。その団体は生涯学習を支援する団体で、利用者の要望に基づいて講師を派遣している。子どもや保護者向けのリクエストが多いようだが、生涯学習の中には高齢者も含まれている。ドクターの主な関心も、これまでは子どもの教育や保護者の子育てや生き方にあったが、この頃では自分も含めて定年退職後の生き方・考え方にも関心がある。どう考えて、どう毎日を送れば、寿命まで絶こうちょうに生きられるのか、その処方箋なり対策を探りたい。定年後も何らかの仕事があったり、社会や家庭での役割があったり、趣味があったりそのサークルに参加しているような人は心配ない。心配なのは年金や貯えによって働かなくても何とか生活は出来るが、これといった趣味ややりたいことが無い人たちだ。自分から動こうとしないで、家の中に閉じこもっているのは本人の責任だと言ってしまえばそれはそうかもしれないが、不本意な閉じこもり者や不本意な孤独者は少しでも減らしたい。いつ自分がそうなるかもしれないし、そうした人たちの存在は社会的損失だと思うからだ。折角人間としてこの世に生まれて来て、定年まで社会や地域に貢献してきた人たちが最後まで気持ちよく生きられる術がないものか。ここまで寿命が延びた現代にあったシステムや考え方を探りたい。

 ☆パソコン画面を通した担当者の方との対話の中で、自分が何をしたいのかを探求するドクター。単にこうした若い人と話したいだけかもしれない。

Dr.888 揺れる心(1月22日)

友人知人から怪我や病気、中には死亡の知らせが入る。こんな厳しい情報に触れると、その方々のご回復やご冥福を祈るとともに、特に何もなく生きていられている現状に感謝しなければという気持ちになる。でも又しばらくすると、やりがいというのか生きがいをバンバン感じられない生ぬるい日常にもの足り無さを感じたりする。もの足りなければ自分から動けばいいと思うがそれもなかなか出来ない。自分のせいだけにどこへもこのやるせなさを持っていけない。こういう中途半端な焦燥感に対処するために考えたのが、「流れで生きる」という生き方だが、これでいいと思うこともあれば、こんなんじゃだめだと思う時もある。どう考えても結局は「流れで引き受けたことをやりながら生きて行く」しかない。生きていると、時には「流れでやること」の中に面白いことややりがいを感じることもある。その時々出会う面白さややりがいのために生きているのだろうか。

 ☆流れでいろんな学校を訪問していると、懐かしい知人や元気な子ども達に出会える嬉しさや面白さに出会えることもある。

Dr.887 何をするか(1月21日)

特に用事がない時何をするか、これが結構「人生絶こうちょう」の大事なポイントだ。『〇ンパンマン』が67歳頃に急に売れて人気漫画家になったY氏は、仕事がない時にもテーマを決めて研鑽し続けることが大事という。それは分かるが、研鑽していたら誰にでも陽が当たるわけではない。陽が当たろうと当たるまいと自分がやりたいことに打ち込んでおくことが大事ということだろうが、これがなかなか凡人にはできない。凡人の定年後の過ごし方を研究するドクターとしては、Y氏提案だけでは解決できないという思いが残る。将来の陽の目を当てにする人はそれを目指してやって行けばいい。陽の目が当たるかどうかは「流れ」「運」次第と考えるドクターとしては、陽の目を目標にせず、先ずは「食べて」「寝る」を基本に「生きる」ということでやって行ってはと思うが、それでは「ただ生きる」ことが人生目標となり、よく「寝る」にも「食べる」にも何かしら「動く」方が良く、それでは「何をして動く」のかという最初の問いに戻ってしまう。そんなことで未だ「何をするか」という答えは見つからないが、答えを見つけるためにもとりあえずは「食べて」「寝て」生きて行かなければならない。同じ生きるなら元気に明るくと思うが、それには「どう生きる」という指針があった方が良く、また最初に戻って「何をする」を考える日々が続く。

 ☆とりあえず最近は議員活動の一環で「あいさつ運動」が活発な学校を回ってお話をお聞きしているが、生きてると「何かする」テーマは向こうからやってくる気もする。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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