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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.1275 分刻み(5月25日)

 このところ、自分の家の仏事も入れて分刻みのスケジュールが続いている。こんなことではじっくり考えていい仕事が出来ない。

 じっくり考えたからと言っていい仕事になるとは限らない自分の特性から言って、バタバタしている方が、退屈しなかったり変なことに悩まなくっていいかもしれない。悩んでる暇もないのはいいが、少しは空き時間もあって良いのにと勝手なことを思う。

 これまでの経験から言っても、何事も多すぎるか少なすぎるかが多く丁度いいというのは中々ない。やる事や行事も全くないのは寂しいが、昨今のように多すぎるのもいかがなものかと思ってしまう。どれか一つ飛ばしてしまったり、一つ一つがなおざりになるのではないかと心配する。

 それでもこのバタバタスケジュールも自分が入れたものではなくて、向こうからやって来たモノが積み重なったものだ。

 流れを信頼して流れに従って生きるをモットーとするドクターとしては、今の自分にはこの分刻みが必要なことと考えて、それに従って出来ることを自分らしく陽気にやっていくだけだ。周囲の人を笑顔にする、このモットーだけは忘れないようにいきたい。

 ☆この間の駅前ストリートピアノのオープン式で、またやった「がんばろう」「オー」。人は喜んでくれたでしょうか。今日もバタバタ行くぞー。「オー」

Dr.1274 天職(5月24日)

 先日久しぶりに冒険指導と言うのか、講義&簡単なワークショップをやった。市教委の初任者研修の講師で、12人の受講生に60分ほどの講演だった。

 普通は市の教育方針を伝える話で終わるのだろうが、ドクターとしてはそれプラスチャレンジの必要性を、チャレンジしやすく居心地の良い環境を教室に保健室(養護教諭も参加)につくることの必要性を、体験アクティビィティを入れながら説いた。

 受講生の反応も良く、やっていて気持ちよく、活き活きしているのが自分でもわかったし、後で担当者が送ってくれた写真を見ても明らかだった。

 冒険指導やワーク付き講話(話だけはダメみたいです)が天職だろうか。そうとも思わないではないが、たまには楽しいが毎日となると飽きがくるし、ネタにも不足するだろう。

 この頃では、いろんなあいさつで、こぶしを突き上げての「オー」が天職みたいになっているが、人前で動じないというのが天が与えた才能(単に羞恥心がないだけかも)だろうか。

 そういえば、このブログも1000何回かになるし、以前の「校長先生絶こうちょう」を入れると3000回ぐらいは行きそうだ。そういえばスポーツセンターでのトレーニングも2600回を超えている。

 何が天職か、ここで言う天職とは何かもあやふやになってきたが、結局、その時の流れで自分がやることになったことで気持ちよくやれること、続けて行けてることが天職なのだろう。流れと言っているが、これを天命・神命(最近神のお話をしたいという元生徒さんから連絡が来ているので、特に書いてみました)といってもいいし、自分をこの世に生ぜせしめ、生かしめている何か大きな力(サムシンググレイト)の意志といってもいい。

 ともかく、生かされている自他の命を大事に、周囲の人に笑顔と元気を届けて行きたい。

 ☆久しぶりの初任者研修指導で活き活き指導するドクター。これも天職の一つでしょうか。みなさんの天職何ですか。

Dr.1273 チョットした違いが大きな違い(5月23日)

 まだ少し早いが、この日しか空いた日がないので、昨日黒豆畑用の畝立てをやった。高畝が良いと言われているし、畝と畝の間の溝底が平らにきれいに上がるのが良いが、これまできれいに畝をたてられた経験があまりない。

 今回も最初上手く行かなかったので、畝ごとに、トラクターについているそこら辺のレバーや調整スイッチをいじりまくっていろいろ変えてみたが、底がきれいに上がらない。ドクター大雑把農業者としては、こんなものかと諦めかけていたが、もう一か所変えてみようとやった調整が効いて、きれいに仕上がり出した。

 それまで畝立てしていた畝、7~8筋も後でやり直した。何やかやで時間はかかったが、何とか   格好はついた(格好だけですけど)。

 この体験から、チョット変えてみる(今回で言えば深度調整レバーを5~6回回した)と結果は大きく違うという教訓を得た。それまでもいろんなレバーをチョット変えて見ていたけど上手く行かなっ方ので、あきらめないでトライし続ける。最後のトライはそれまでよりは大きく変えて上手く行ったので、チョット変化の変化度合いも小さい変化から少し大きめ変化までいろいろやってみる等の教訓もある。

 結局、教訓にしようと思えば何でも教訓になるという教訓を得たのかもしれない。教訓はともかく、来年の畝立てが上手く行くように手順をメモったが、そういえば去年のメモを読みながらやったが今年最初は上手く行かなかった。ドクターメモはあてにならないので、その場で適当にやるという教訓もありって感じですが、もう教訓話はいいか。

 人間結局その場その場で生きてるって感じですね。

 ☆上手く昨日の写真が出てこないので、昔の指導風景です。これも適当ですね。

Dr.1272 オーのおっちゃん(5月22日)

 このところいろんな場で、右手をあげての「オー」と雄たけびの音頭取りをすることが多い。昨日もストリートピアノのオープン式で、「このピアノを活用して、音楽をまちに広げて行きましょう」「オー」のあいさつをした。

 いろんな行事に顔を合わせることが多いある新聞記者の方から、小学校でも「オー」の機会が割とあるので、「オーのおっちゃん」と呼ばれてますよと教えてもらった。

 もちろん「オー」だけが自分の仕事ではないが、誰でも彼でも「オー」が出来るわけではないので、自分の大事な役割として「オー」の音頭取りと元気を届ける役をしっかりとやって行きたい。

 これも一つだが、生きてると自然と自分の個性とか性格とかと絡み合って役割が決まってくる。自分に回ってきた、ご縁がある役割を丁寧に、自分らしくやっていきます。

 それが亡き母の遺志にも叶うと思う。皆様、ご自分に回ってきた役割をあなたの個性を生かして、努めて行きましょう。出来れば笑顔で。いろんな役が回ってきて、後から考えれば、みんなその時の自分には必要な役回りだったことが分かります。

 ☆ストリートピアノのオープン式。子どもも含めてみんなそれぞれの役割がある。

 下は霊前に供えられた供花。夫々の色や美しさ、旬がある。各自の夫々の時に応じた役をやって行きましょう。ドクターの今のそれが「オーのおっちゃん」ですかねえ。

Dr.1271 誰かが見ている(5月21日)

 ネットでブログ書いてるのだから当然と言えば当然だが、どこかで誰かが見てくださっている。普段は何人ぐらいが見ているかの数値しか分からないが(時折ダッシュボードの数字を見るが、それすら本当は何の数字かよくわかってませんが)、時々「見てますよ」という声を頂き嬉しい思いをすることがある。

 教育長ブログも書いているので、そちらでも思わぬところから「見てますよ」という声を頂くことがある。たまに両方見てますよという方もいらっしゃる。

 昨日はこども園の保護者の方が、子どもを横に載せた車の窓から声をかけてくださった。誰だったかなと思い出していると(最近では人の名前は勿論、顔さへも思い出しにくくなってきている)、「日記見てます」と言われるので、ブログつながりの方と言うことが分かった。

 前には、海外の日本人学校の方が偶然見つけて、見てますとおっしゃってくださっていた。

 とりとめのないことや、同じようなことばかり書いてるドクターブログを読んでくださる方がいるというのは嬉しいし有難い。

 ちょっと考えて見たのだが、自分の文章なり、自分の発言を聞いてくれたり、覚えてくれたりする人がいるのは何故嬉しいのだろう。自分の存在が何らかの価値があるということで嬉しくなるのだろうか。存在意義に関わるようなことかもしれない。

 よくは分からないが、読んでくれる人がいたり、「見てますよ」という声が聞けたりするのは、間違いなく当人(ドクター)にとって嬉しいし、励みになり、やりがい生きがいにも通じる。

 これからも続けられる限り続けますのでご愛顧よろしくお願いします。時々感想も聞かせてくださいね。

 ☆海外日本人学校から帰ってこられた元校長先生。ご挨拶を頂き、元気を頂いた。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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