Dr.1355 めっちゃ嬉しい(8月23日)
トレーニングに行くと、よく出会う教え子が「100㌔挙げれました」「めっちゃ嬉しい」と話しかけてきた。聞いてみると、ベンチプレスで100㎏の重さのバーベルが挙げられたということだ。長らく停滞して、何度も試みたけどあがらなかったのが今回あがったので、喜びがひとしおらしい。
後から来た、もう一人の教え子にも喜びを伝えていた。彼が帰って行った後、後から来た教え子に「あいつはよっぽど嬉しかったんやな。ところでお前は何キロ上げるんや」と聞いたら、「僕は110㎏ほどですが、体重が違いますから。ちなみに先生が挙げているのは40㎏です」と言う。
こちらは40㎏でもひーこら言っているし、負け惜しみでもなく記録が狙いたい訳ではない。トレーニングの目的の第一は、汗をかいて美味しく晩酌を頂くためと言う邪道なトレーニング動機でやっている身としては、何キログラムをあげたということよりも、彼が余程嬉しかったこと、その喜びをいろんな人に伝えていたのが嬉しい。
人から見たら大したことなくても、本人にとってはこの上なく嬉しいということがある。その嬉しいが生きる原動力なる。嬉しいの中身はみんな違っていいし、その中身に甲乙の差はない。生きていて、時に嬉しいことに出会う、そしてその喜びを伝える人がいるって最高じゃないですか。
今回の彼のような嬉しさに出会えたらそれは素晴らしいことだが、この頃思うのは、嬉しさに出会えなかったとしてもそれでいい。しょげてはいけない。しょげるのも仕方ないけど、生きるのを止めてはいけないということ。
生きるのはなかなか大変、思い通りには行かないのが普通。そんな人生を生かされている間、たんたんと生きるのだが、そんな中で時折今回の彼のように嬉しいことが訪れる。これを何回も期待して生きるのではないが、生きてると、大変を覚悟して生きてると、時にはこんなこともあるということ。良い例を見せてもらった。
ドクターも期待せず、たんたんと、思い通りにならない人生を、出来れば機嫌よく生きて行きます。安易な期待をやめたとき、嬉しいことが訪れるかもしれないけど、それを期待して生きるのはちょっと違う。あくまでも、たんたんと、ぼつぼつ生きましょう。そのうち、あるかもしれません。いえいえ期待はしてはいけませんよ。何回も同じこと言うなってか。
☆この週末の映画鑑賞。いろんな人生を見せてもらいました。

Dr.1354 生よりも大事なモノ(8月22日)
昨日のテレビで野生の動物・鳥たちの生態をドキュメントした番組を見た。野生動物でも人間でも生きること(命)が一番大事と思っていたが、それよりも子孫を残すこと(生殖)を大事に進化した鳥の話が印象に残った。
その種のオスはメスに気に入られるために、飛ぶことを犠牲にしてまでも(自分の命を守ることよりも)羽を進化させて大きくて目立つモノになっているということだった。
自分が生きることと、子孫を残すこと、どちらが大事とも言いにくいことだと思うが、子孫を残すこと、子どもをつくり育てることが生物にとっては自分の命と同様、あるいはそれ以上に大事と言う考え方や生戦略もあるということだ。
現代を生きる人間にとっては、さらに多様な価値観があるので、この二つだけではないとも思われるが、人によって、個体によって、大事にするものが違うということに気付かされた。どちらがいい、どれが正しいという問題を超えている。
要するに多様な生き方があって、自分と違う生き方も含めて、夫々の生を大事にしていかなければならないということ。世の中には多様な考えの人や生き物がいるということは忘れないようにしたい。
だから、どんなことをしても(どんな決定や行動をとっても)、合う人(支持してくれる人)も合わない人もいるということだ。合わない人や考えを無視して良いということではないが、自分の生き方や考え方を万人が支持しないとしても自信を無くすことはないということ、自分の生を全うするのが大事だしそうしたい。そんなに気張らなくてもいいですけど。
まあ、多様な生き方、多様な人がいるということを前提にぼちぼち行きましょう。
☆多様な生き方(顔を持つ)人の一人、ドクター。自分の生き方を自分は応援したい。せめて自分は自分の最大の応援者でいましょう。

Dr.1353 気の合う人(8月21日)
気の合う人達とお酒を頂いた。かつて同じところ(3人一緒ではないが)で勤めた人たちだ。美味しい料理を頂きながら、昔話に花が咲いた。
昔話を何回しても生産性はないように思うが、実に楽しい時間だった。同じ話を何度言ったかも分からない。今度はもう一人加えて、また年末にやろうということになった。
私達は生産性のためだけに生きているのではない。というより、何か目的があって生きているのでもない、というのがこの頃のドクターの学びだ。ただ生まれて、一定の期間生きて、また去っていく。このことに何か特別な意味があるわけではない。
特別な意味を意味付けした方が充実した生き方が出来る人はそうされたらいいが、そんな意味に縛られない方が楽な人は、意味なしで、たんたんと生きればいい。
ドクター的には後者だが、あんまり何もなさ過ぎても充実感や幸福感が得にくいかもしれない。そこで考えられるのが「人のため」だが、これももう少し踏み込むと、自己満足につながる利己的な理由になるのかもしれない。
まあともかく、利他であろうと利己であろうと、毎日が元気でちょっとばかりの幸福感を持って生きられるのが良い。そうなるためには、昔話も「ひとのため」意識も何でもありなのではないでしょうか。まあみなさん、やって良かったことをやって行きましょう。
☆昨日は特に写真撮らなかったので、前のやつです。こんないい加減な感じでいいんでしょうか。こんなんもありじゃないですか。

Dr.1352 相談を受ける(8月20日)
いろんな理由で苦しんでいる人から相談を受けることがある。自分自身も悩みやすいし、いろんな課題もある中、他人の相談にのっている場合ではないという人があるかもしれないが、相談者から「話を聞いてもらえただけでも良かったです」「気になっていたことが一つ減りました」「優しい人やと思ってました」みたいなことを言われると、聞かせてもらってよかったと思う。
悩みに大小を付けるのはおかしなこととは思うものの、深刻なお話を聞いていると、自分の悩みなどちっぽけなものだと思えてくることもある。しかし、世の中には人から見ると小さな悩みに見えても、当人にとっては生死を分けるほどの大きな悩みのこともある。悩みの大小は人が決めることではない。
自分も悩みやすいと、人の悩みや苦しみの現状が分かりやすい。その人しか分からない部分は勿論あると思うが、しんどさの方向性はわかる部分も多いと思う。
ホントに世の中、思い通りには行かない。そこに悩みが起きるわけだが、その思いにこだわり過ぎないようにしようというのが、今のところの気付きだ。思いは持ってもいいし、持ってしまうものだが、それはそれとして、思い通りならないとだめだという思いは減らしていく。
どうせ世の中なるようにしかならないが、なるようにはなる。流れやご縁や運命(人によっては神のご意志、仏のお導き)大きな意志、何と呼んでも良いが、自分の力では如何ともしがたい力によって人生、世の中が進んで行く。
これを時々心に落とし込みながら、しんどいことも楽しいこともある人生を、ボチボチ歩んで行きましょう。これは相談者にも自分にも言いたいことです。皆さんも良かったら。
☆オンライン研修。勇気をもって手を揚げ発言しました。言うか言わないか、その日なんで手を揚げたのか、自分の力だけではないように思います。こんな感じで生かされています。

Dr.1351 施餓鬼(8月19日)
母の施餓鬼法要を近くのお寺で行った。この1年に亡くなった家(家族)が順に拝んでいただく。5名ほどのお坊さんや村の役員(社寺係)の皆さんなどが関わっていただき、集まる家庭も多いので(今回は3家庭)多くの人が集まった。
先日の初七日から昨日の施餓鬼、そして今夜の百箇日と一連の亡き母に関する行事が集中している。仕事もあるので慌ただしく時間と行事が過ぎていく感じだ。
ゆっくりとお別れと言う感じではないが、この慌ただしさは却って寂しさを紛らわせてくれているのかもしれない。
慌ただしさに流されるのは、自分の生き方としてはよくある。いわゆるバタバタ人生だ。性に合っているというのか、そういう生き方が定めなのかもしれない。ゆっくりゆったりした生活では、深く考え過ぎてしまう。それはそれで悩みやすく大変なような気がする。
落ち着きがない、味わいがない、深みがないと言われそうだが、所詮人生こんなもの、一度の人生だから有意義に生きなければならない等と気張るよりはいいように思う。あんまり身構えすぎると却って生きにくくなるタイプ(ドクター含む)の人には、この流れに任せてバタバタして生きて、気が付いたら最後の時が近い、こんな生き方も大いにありだと思うのですが、皆さんどうでしょうか。
☆慌ただしくバタバタしている間にもうお盆も過ぎてきました。ボチボチバタバタしていきましょう。どっちなんかいって感じですね。
