ささやま冒険教育

お問い合わせ

Sasayama Adventure Project

丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.1744 当たり前の有難さ(10月4日)

 昨日しばらく前に骨折して長らく動けなかった人に出会った。今は大分回復して、「こんなに軽く身体が動くとは思わなかったです」と言われる。

 「怪我は大変だったけど、日頃当たり前と思っていることの有難味が分かって良かったね」と答えたが、人は何かを失った時でないと、そのものの有難さや意味を理解できないところがある。

 よく言われるように失ってからでは遅いので、失わないうちから今あるものの値打ちや有難さに気付く目を持ちたい。戦争もなく、寝るところや食べるものもある今の生活の有難さに気付ければ、日々を大事に感謝の心を持って生活できると思う。

 実際には、何もない時に今あるものの価値に気付くのは修行がいる。怪我や不測の事態など、起こっては欲しくないことだが、起こってしまった時には、その痛い教訓を生かし忘れないようにしたい。

 ドクターも鎌で手を切って、未だにばんそうこうを張っているので、素手で何でもつかめるという当たり前の有難さは少し分かりました。これからも今の自分の当たり前に感謝しながら、自分の出来る恩返しを考えて行きたいと思います。大したことはできないと思いますけど。

 ☆特に載せる写真がないので、以前の村祭りの時の子どもを先導する行司の写真。こんなんできるのも当たり前ではないですよね。多くの与えられたものに感謝です。

Dr.1743 人間関係(10月3日)

 人生の問題の8割だったか9割だったかは人間関係に起因するという説を聞いたことがある。それほど人間関係は難しい。

 原因をはっきり聞いたわけではないが、今の職場がしんどくて休まれている方や休みから復帰される方がある。それまで元気にやっていた人が、職場が変わってしんどくなることがある。

 ドクターもかつて、学校現場から教育委員会に入って二つ目の現場に変わった時にしんどくなったことがある。これまでとやり方が違って、ついていけなかったのだ。人間関係もあったかもしれない。人間関係と言っても、合わない人もいれば、応援してくれる人もいたのを思い出す。

 ともかく、「もうだめです。やめさせてください」と上司に相談したが、なんやかんやと言っている間に1年が過ぎた。1年過ぎると何とかなるもので、その後長くそこで勤めることが出来た。

 今しんどい人も、時に休んだり、相談したりしながら、何とか今を切り抜けてほしい。一番しんどい時を過ぎれば、なんとかなるものだし、そのしんどい経験は後に生きて来る。

 ドクターも今でこそ、こんなアドバイスみたいなことが言えるが、当時は本当に真っ暗で、休まなかったのも、職を続けられたのも、たまたまで、乗り切れたのは運が良かっただけ、自分の力だけではないような気がする。

 人間関係も含めて、完璧な状況はいつどこでもないが、何か課題を抱えながらも、生き続け、やり続けていくしかない。偉そうなことは言えませんが、しんどい皆様何とか弱音を吐きながらも、頑張り過ぎずにがんばって、自分らしく精一杯歩んで行きましょう。大きな力に生かされている私達です、光が見えてくるのは間違いありません。それを信じてボチボチ行きましょう。

 ☆変色したお堀の草。迷惑な草とは言われますが、よく見ると規則正しく並んでいて、彼らなりに頑張っているようにも見えます。

Dr.1742 手を切る(10月2日)

 手を切ると言っても、何かを止めるとかいう意味ではなく、本当に手を切った。畑の雑草を鎌で切っていて、勢い余って自分の左手人差し指の先を鎌で切ってしまった。

 切った瞬間頭にひらめいたことは、「痛い」ということと、「この鎌こんなに切れたんや」ということ。雑草を切っていた時には、もっと鎌が切れたらいいのにと思って力いっぱい草を切っていた。

 その後血が治まってから(結構時間がかかるほど切り口は深かった)考えたことは、この世の中で自分に起こることは全て天が与えた試練で、無駄なことはないと思っているので、なぜ手を切る必要があるのかしらんと言うことだった。何を自分に気付かせるために手を切ることになったのだろう。

 その答えはまだよく分からないが、奥様が言った「指落とさないで良かったね」というのが、一つの答えだろうか。あの勢いで鎌をふるって雑草を刈っていたので、指が落ちてもおかしくなかった(そこまでいかなくても、血が止まらず、救急車を呼ぶ事態になっていたことは考えられる)。

今朝見ると、傷口は開いているが、血は止まっているし、腫れも痛みもない。ありがたいことだ。この頃いろんな行事がたてこんで、このブログを読んでくれている人型ネコに心配されるほどだったので、ちょっと立ち止まれ、ゆっくりしろということを知らせる警鐘だったのかもしれない。

 しかし、血が止まった後も、テープぐるぐる巻いて、作業を再開したので、軽傷で警鐘を軽く受け取ったかもしれない。警鐘には気を付けながら、ボチボチ行きますわ。

 ☆いろいろバタバタの一つ、高校のスピーチコンテスト。別に見に来てくれと頼まれたわけではなかったんですけどね。こんなとこにも顔出してるので、余計バタバタになってます。指切り警鐘大事にして行きます。

Dr.1741 アンコンシャスバイアス(10月1日)

 アンコンシャスバイアスというのは無意識の思い込み、偏見ということで、自分では気づかないうちに勝手に思い込んだり、気が付かなかったりすることがあるということだ。昨日の人権研修会で、改めてこのアンコンシャスバイアスに気付くことの大事さに気付かされた。

 講師が例として挙げられたのが、この男性講師は講演依頼などを自分の予定で決めて、後で奥様に伝えることが多かったらしいのだが、ある時「あなたは自分の都合で予定が決められるけど、私は子ども世話や食事の準備などもあって、勝手には決められない。自分の身勝手さに気が付いているの」と言われて初めて自分が恵まれていることに気付いたとおっしゃっていた。

 典型的な差別事象だけでなく、このような一見差別と関係なさそうな日常的なことにも、このアンコンシャスバイアスが関わってくる。当然差別事象にも関わってくる。特に多数派にいると、自分の有利さに気付くことが出来にくいということだ。

 これからも気を付けてこのアンコンシャスバイアスに陥っていないかどうか、絶えず点検していきたい。

 ☆池の点検写真です。これは大丈夫だと思うけど、油断は出来ない。

Dr.1740 たまたまということ(9月30日)

 世の中には、なぜこのタイミングでということが、時々起こる。例えば、ドクターは平日の朝はテレビ漫画の「紙ウサギ ロペ」を見るのを楽しみにしていて、その時間の前にはテレビの前に陣取って、背景の小さな文字も見落とさないようにと身構えている。

 6時53分ごろに番組が始まるのだが、その時間に限って便意が襲ってくることがある。ほんの1~2分の番組なので、それぐらい我慢できるだろうと思われるかもしれないが、それがどうしようもないほど切迫したものである時があるのだ。

 もっと前の便意(例えば5分以上前)なら、トイレを済ませてから落ち着いて観ることが出来るし、番組が終わってからの便意なら、全く問題はない。それが番組が始まる直前(例えば1~2分前)の場合があって、この時には「どうしようかな。何でこのタイミングやねん」とうなってしまうことがある。

 卑近な例で申し訳なかったのだが、こういうことが便意以外でも起こることがある。他の時間(他のタイミング)なら全く問題がないのに、たまたま一番起きてほしくない時間に起こってしまう(遭遇してしまう)ということがあるということだ。

 皆さんにも思い当たるふしがないでしょうか。こんなことは他にも、良い例でも起こって、たまたまこのタイミングだったから良い結果になったということも起こる。本当に世の中不思議なもので、このタイミングの絶妙さを見ても、人知を超えた事象の凄みを痛感するのでした。人間の力や努力は大事ですが、それだけで何でも済むわけではないということです。やっぱり謙虚さが大事ですね。

 ☆昨夜の観月会、たまたま絶好のタイミングで月が会場の上に。有難いたまたまということもありますね。

 

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

  • アーカイブ

  • New

    2025年9月19日
    Dr.2384 またも激励(9月19日)
    2025年9月18日
    Dr.2383 今回も激励(9月18日)
    2025年9月17日
    Dr.2382 やっぱり大変そう(9月17日)
  • ページのトップへ戻る