Dr.1845 不安症対策(1月21日)
「不安症」の本を少し読んで、かじった対策の一つは、不安になる時間を与えないために別のことをするというようなことです。これも以前から「小人閑居して不善をなす」ということで気が付いていたことだ。
「小人」(大したものでない人)のドクターとしては、閑な時間があるとろくなことを考えないので、何かしらやる事がある方がいいと思ってました。それで、よく「いつものようにバタバタしています」みたいなことを、時々書いていたと思います。
落ち着いて人生を考えたり、ゆっくり自分のしたいコトを考えて取り組むのがいい人はそうされたらいいと思いますが、ドクタータイプの人はバタバタと、やらなければならないこと、やる羽目になったこと、人から頼まれたことなどを、深くでなくてもいいから、自分にできる範囲で全力で(でも無理しない範囲ですけど)やっていく。そして気が付いたら、こんなに時間がたっていた(一日が終わっていた、もう一月たった、1年早いな、もうこの齢か、みたいな)というのがよいように思います。
じっくり自分の人生を考えなくては充実した人生にならないように言われてますが、じっくり考えたからと言って人生が上向くとは限りません。人生をそう大層に考えるのも不安をあおると思います。「たかが人生、されど人生」あたりが丁度良いのではないでしょうか。
今回も又、自分がこれまで考えたことの内容と一致するものでした。やっぱりこの本は前に読んでいたのなか、でも最近出たばっかりの本だし。ということは、ドクターも自分の考えたことを本にできるのだろうかと思ってます。こんなお気楽な奴は「不安症」とは言えないのでしょうかね。
でもよく奥様からは、「自分勝手に不安症なやつ」と言われます。このあたりが正解ですかね。
☆昨日のホッケータウン認定式。この後、いろんな用事があってバタバタした休日でした。こんな感じで一日が過ぎるのがドクター的にはいいようです。
Dr.1844 不安症(1月20日)
「不安症」に関する本を読んでいて、前に自分でも考えたことと同じことが書いてあって意を強くした。それは遺伝子的に、「楽天的」な人よりも、「(将来を不安視する)悲観的」な人の方が生き延びる確率が高かったので、今生きている人はどちらかと言うと、将来を心配する不安症と言うのか悲観的傾向の人が多いということ。
比較的安全な現代とは違い、原始時代には用心しないで「まあ何とかなるやろと無防備な人」は生き延びられなかったのに対して、「最悪の事態を想定して(考えて)、常に用心し備える人」の子孫は生き延びる確率が高かったと考えるからだ。ドクターは自分の心配傾向を分析して、ちょっと安心するために、「今を生きる多くの人は、自分と同じように不安的心配的傾向がある」と思いたかったからか、こうした自分勝手説を考え出したが、本に書かれているほど満更根も葉もないことではなかったということ。
あるいは、前にどこかでこういう説を読んでいて、いつの間にか自分が考えたと思い込んでいるのかもしれないが、いずれにしても、世の中には将来に心配を抱く人が多いということだろう。
大事なのはその後の、だからどうしたら生き易いかと言うことだ思うが、それについては(覚えていれば)次回、本を読み終えた後に自分の考えも入れて述べようと思います。
でも恐らく、こたえは「流れを信頼して、自分に今できることに全力で(だけど無理し過ぎずに)あたって、一日を過ごして一杯飲んで寝る」みたいなことになるとは思いますけど、まだ確かなことは言えません。乞うご期待を。
☆前に乗せたかもしれませんけど、何日か前の雪景色です。前のことはよく覚えられなくなってます。これも心配症にはプラスかも知れませんけど。
Dr.1843 覚えてますか(1月19日)
スポーツセンターで、市内で校長をしていた時の教え子夫婦に出会った。子どもの習い事(バスケ?)の送迎に来ていたのだった。まず旦那のほうが「丹後さん」と言って近づいてきた。ちょこっと話をしてるところに、奥さんがやって来て「ほら、丹後さんやで」と言ってうながした。
こどもは三人いて、市内の小学校に通っているらしい。奥さん(これも教え子です)は、「ほんとに私たちのこと覚えてますか」とせまってきて、最後は「子育て環境よくしてくださいよ」と念押しされた。去り際に一番下の子は手を振ってくれ、年上の子は同じように手を振ろうとして(年頃なのか)ちょっと恥ずかしそうに躊躇した。子どもは可愛い。
市内では時々教え子に会うことがあって、何人かは教え子同士で結婚している。いろんな場面、いろんな立場で出会うが、みんな元気に幸せに暮らしてほしい。
スポセンでは、教え子に会うことも、新しい人と出会うこともある。やはり短時間のスポセン通いはやめられない。
☆教え子や新しい出会いもあるスポーツセンター入口。今夕も又ひと汗流して、後の一杯行けますように。
Dr.1842 時間があればいいか(1月18日)
新聞や何かで面白そうだと思う本を、ネットで注文して配達してもらうという生活をやっている。買う本はタイトルや簡単な書評で決めるので、手に取ってみると期待外れと言うことも多い。
たまに、本当に面白い、とても参考になるという本に出合うが、大方ははじめは面白いがだんだんつまらなくなる。
今朝読んだ本は、まだごく初めの段階だが、なかなか興味深くもっとこの先を読みたいという気持ちがある。こういうことは時にあるが、平日は職場に行かなければならないので、その先はまた翌朝仕事に行くまでに時間があればと言うことになる。
こんな時、「もう少し時間があれば(読みたいだけ読めるのに)」と思うが、これがいっぱい時間があったらあったで、それほど充実した時間が継続するわけではないということは、定年後の1~2年で経験済みだ。
人にもよると思うが、ドクターの場合、たっぷり時間があって、いくらでもしたいことが出来る(読書も含めて)という状態は、そのことに飽きてしまって、逆に時間を持て余す。いくら本が面白いと言っても、一日中、あるいは数日間、読書を中心に過ごすというのは無理がある。
読書でも何でも、時間が限られている中、空いた時間を見つけてそれをやるというのがいい。トレーニングでも、仕事が終わってからの小一時間でサッとやって、帰って一杯やって即寝というのが性に合って続けられていると思う。これが、一日中、何時間でもトレーニングと言われたら、多分続かないだろう。
そんなこんなで、セカセカと時間に追われながら、やらなければならないことをやっていくというのが今の自分には合っているのかも。置かれた状況にあった生き方をこれからも探していきたい。
☆今朝の慌ただしい中、ちょこっと読んで今のところ面白い本。「不安にならない、なくすという目標は間違いです」このフレーズだけでも面白い。それなら、どうしたらいいのか。この先いい答えが見つかったらまた紹介します。
Dr.1841 隠れた努力(1月17日)
ドクターよりも1歳年上の方で、60歳定年でマラソンをはじめ年々記録を縮めている元気な方にお会いしたのだが、その方に昨夜スポーツセンターで出くわした。ドクターがトレーニングを終えて帰ろうとした時、駐車場の周辺を走っておられたのだ。
そういえば、週に1回ぐらい仲間とスポセンで走っていると言われていた。昨夜は一人で薄暗い中を黙々と走っておられたのだが、声をかけるとポケットからデカンショ節の音源を取り出して見せてくださった。
そういえば、この話(デカンショ節を流しながら走りたい)も聞いたことがある。ともかく、67、68歳になっても元気に走り続ける体力を維持するためには、日頃の隠れた努力があったのだということが分かった。別に隠すのが目的ではないと思うが、地道に続ける、しかも楽しみも持って続けることの大事さを教えてもらったような気がする。
皆さま、ご一緒に、隠しても隠さなくてもいいけど、何かの楽しみ(ドクターの場合はトレーニング後の一杯)を持ちながら地道に少しづつ続けて行きましょう。努力と言うと、何か無理してがんばるイメージがあるので、努力と呼ばないまでも一つのことを楽しんで続けるって感じです。
☆この写真の、猪の被り物の方です。やっぱり面白みも大事ですね。