ささやま冒険教育

お問い合わせ

Sasayama Adventure Project

丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.1475 どう生きる(12月9日)

 職場の人と大変な毎日をどう生きるかについての話になって、「木曜日まで来たら、今週ももうすぐ終わり。何とか乗り切れそう、よくがんばった」とまずは一息つくという話を受けて、ドクターは「大変なことが多い毎日なので、先のことを考えるとしんどくなるから、まずは今日一日を終えることを目標に日々を過ごしている。一日が終わって、ホッと一息の一杯を目指して過ごしている」みたいな話をした。

 どちらも、一週間、一日と言う短いスパンで考えていて、将来的なビジョンがないと言えばそうだろうが、きれいごとだけでは生きていけない。生きて行くのは、仕事を続けていくのは、甘く考えてはいけないほど大変な面がある。

 人生をどう考えて、日々を機嫌よく過ごすか、これが最近のドクターテーマで、いろいろ考え着いたことを書いているが、悟ったと思ってもまた直ぐ迷いが来る。迷いが来て大変だと思っても、少しマシになったりする場合もある。

 ずっと落ち着いて、自他に機嫌よく行きたいとは思うが、なかなか完成形までたどり着けない。この完成を目指すのが、自分の終身のテーマかもしれないし、やりがいのあるテーマだと思うが、できればこの探求の道も上機嫌で進んで行きたい。それを求めての探求だから、途中で完成してるはずもないから、道の途中で上機嫌と言うのも難しいという話になるのかしらん。少し話がややこしくなったけど、ともかく、今日も機嫌よくぼつぼつ行きましょう。明日は明日の風が吹く。

 ☆風が吹いてもまだ残っているススキの河原。先ずは今日一にを大事に生きる、これでいいんじゃないでしょうか。まあともかく、今日一日です。

Dr.1474 今年の出来事(12月8日)

 師走に入って、一年を振り返り、今年の出来事ベストテンなどを考える季節になった。我が家の出来事で言えば、母の死や娘の大学進学だろうか。春のことなのでもうずっと前のような気もするが。

 自分の今年の出来事は何だろうか。特に思いうかばない。ここ数年同じように、日々を機嫌よく生きる道を模索し、上手く行ったことやしんどかったことなどで一歩前進、また後退などでふらふらと模索が続くみたいなことが続いている。

 特に劇的な出来事はないが、日々を精一杯生きているというのは変わらずあるように思う。精一杯と言っても、目くじら立ててもう突進というのは自分のやり方ではない。「ボチボチ行きましょう」と言う言葉を愛用しているが、これも気を付けないと「ボチボチも行けない」ことになってしまう。

 「ボチボチ行きましょう」を常に実践するには、結構工夫や考え方の整理をし続けなければならない。それなりの努力の上に立った、「ボチボチ行きましょう」だ。

 このような、日々を機嫌よく生きる道を模索するのは、今年に始まったことではないし、今年の出来事ナンバーワンは何だろう、これを決めるのもボチボチ行きたい。

 ☆昨夜の満月きれいでした。ボチボチ行ってると、こんな景色も見えてきますね。

Dr.1473 まるまかせ(12月7日)

 流れとご縁を信頼して、人知を超えた大きな存在に自分の生を「まるまかせ」して、辛いことであろうと思い通りでないことであろうとすべて受け入れて、生かされている命に感謝して生きられるようになると、気持ちが軽くなる。

 この通りだとは思うが、悟りが不十分な身としては、時に迷いが生じて不安としんどさが出て来る。特に辛いことや上手く行かない時が要注意だ。

 しかしこれも何度か体験するうちに、やはり「まるまかせ」の人生が、気持ちが軽く生き易い人生になると分かってくる。そうなると「まるまかせ」人生観に磨きがかかってきて、日々を心穏やかに、感謝と笑顔と周囲への手助けをメインに暮らせるようになる。

 悟りへの道は一直線には行かないが、曲道やくじけそうな時も経ながら、ボチボチ進んでいるようには感じます。これからも笑顔で精進続けます。有難うございました。

 ☆木々の中の小鳥たち。気を付ければ、何気ない毎日の周囲には美しいシーンが一杯あります。感謝

Dr.1472 快楽と幸せ(12月6日)

 今日の新聞に、「快楽と幸せ」についてのお話が載っていた。「快楽」はその楽しい時間が短く刹那的で、「幸せ」(幸福)はもうちょっと期間が長く芯まで届くというような趣旨だった。だから、「快楽」ではなく、「幸せ」を人生の目標にしましょうみたいなことだと思われる。

 確かに「快楽」は刹那的で持続しないし、それをより長くしようとすればいろいろと無理が生じる。これまた確かに「幸せ」は永続してよいものだが、気を付けないと、それに慣れてしまって有難さや充実感を忘れてしまうという留意点もある。

 ドクター的には人生には遊びやゆとりが必要で、その遊びの中に「快楽」もあり、ゆとりの内に「幸せ」を感じるチャンスが入ってくるように考えている。

 遊びは広く、イコール快楽追及でないことは言うまでもない。人生の時間の中心は、「幸せ」を感じて生きて行きたい。今の生活の中にある「幸せ」に気付くことから始めて、「幸せ」のアンテナ感度を高くすれば、日々の生活にある凸凹の出来事の凹の時にも「幸せ」を感じることが出来るようになる。

 人生の仕事や住むところ、誰と暮らすか等には自分の意思に加えて「流れ」が大きな存在としてあると思っているが。ドクターとしては、自分の意思の中にさへ「流れ」の存在が大きいように考えているほどですけど。

 そこで、どのような流れでどのような日々になろうとも、自分の考え方で「幸せ」を感じて行けるような人生観を磨きたい。それが出来れば、どこに住もうが、どんな仕事をしようがそれほど大事(おおごと)ではなくなる(だからと言って仕事等がどうでもい良いなどとは思ってませんよ)。

 ☆バタバタの人生(毎日)の中で、こんな景色を見る時間がありました。幸せなことです。まだ修行が足りず、すぐ忘れてしまいますけど。

Dr.1471 縁起の法則(12月5日)

 仏教に縁起という考え方がある。全てのことは縁があって起こる。縁には本来、いい意味も悪い意味もない。これを踏まえて、起こることに一喜一憂せず、それを活かすようにしなければならない。

 後半はドクターの考えも入っているが、ドクターが言う流れは縁の考え方にも似ているが、違うところもある。どれが正しいというよりは(勿論何千年も続いている仏教の方が正しいとは思うが)、要はその考え方で生きて、生き易いのが大事だと思う。

 仏教の縁起で起こる出来事は中立のようだが、良縁、悪縁という言葉はある。ドクターのいう流れで、気を付けなければいけない時は、悪縁と似た悪い流れが来た時だ。それを反省や自戒の好機と考えて、今後の生き方に生かすことが大切だと考える。

 仏教の縁起もドクターの流れも、より良い人生のために、どう考えればいいのかと言うことだと思うので、仏教の考え方を参考にさせてもらって、より良い生き方、よりへこみ過ぎない生き方ができる考え方を求道し続けて行きたい。

 お釈迦様のような厳しい修行をしていない身としては、偉そうなことは言えませんが、参考にできるものは仏教と言わず、他の宗派や宗教の考え方、哲学、身近にいる人の生き方、何でも参考にさせて頂いて、自分に合った考え方を磨いていきたいと思います。道は遠いですけど。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

  • アーカイブ

  • New

    2024年5月4日
    Dr.1939 法事(5月4日)
    2024年5月3日
    Dr.1938 何も知らない(5月3日)
    2024年5月2日
    Dr.1937 生きがい(5月2日)
  • ページのトップへ戻る