Dr.241 2パターン人生訓(1月7日)
新年から特にこれといってすることがない日が続いている。特にすることがなくても食っていけているというのはありがたいことだが、こう無沙汰な日が続くと、これはこれで機嫌よく過ごすには工夫がいる。食べる寝る風呂に入る掃除する等の日常の生活を修業と思って念入りにやるというのも工夫の一つだが、どう生きたらハッピーに生きられるか(人生訓)を考えるというのもよくやる。そしてこれに対する今のところの答えは「あれこれ考えない」ということだが、あれこれ考えない方が良いと分かっていても考えてしまうのが悟りきっていない人間の性だ。性やどうしようもないことには逆らわないというのもこれまでに得た人生訓の一つなのでややこしい。ともかく数ある人生訓は二つのパターンに分類できるらしいということを今回学んだ。一つは「ハウツー型」というのかどのようにして自己を改善していくかと言うやり方を追求する系統、もう一つは「あるがまま型」というのか、人間はみんな今のままで十分幸せなのだから後は変な努力(自己向上策)はせず、今が恵まれていること(今の幸せ)に気付くことを心掛けよというタイプだ。ドクター流の「流れに従ってやる羽目になったことを無理ない範囲でやっていく」というのはどちらかというと後者だと思うが、元旦からの何もない日々を持て余し気味な身としては、まだまだこれで大丈夫と言う人生哲学ではないことは分かった。人生訓完成目指して今日も修業を続けたい。
☆今年の置物鈴を見ながら、人生訓の二つのパターンについて考えるドクター。悟りへの道は遠い。
Dr.240 下を向く?(1月6日)
「下を向いて生きよう」みたいなことが書いてある本を読んだ。何か前向きではないような主張だが、「人生で大切なのは幸福に生きるということだ」という生の原点に関わる主張には共感できる部分もある。下を見て自分より厳しい条件で生きる人を見て、自分の恵まれていることを感じて感謝して生きる方が、上を見て焦りや不満を感じて生きるよりは幸せに暮らせるのだったら、下を向いて生きようというのが著者の主張だ。人間には人と比べるなと言ってもどうしても比べてしまう性向があるので、比較癖から逃れられないとしたら、いくら出世や金儲けをしても上には上がいるのだから、下を見て満足して生きようということだ。全面的に同意しにくい面もあるが、生きる上で何が一番大事かと言うことを忘れないようにしようということは大切だと思う。ドクター的には「いかに上機嫌で生きるか」「いかにお気楽に生きるか」「定年後をどう充実して生きるか」という表現で、つまるところは「どう幸せを感じながら生きるか」ということを問うている。これまでの研究で幸せかどうかは、物理的客観的な条件によると言うよりは心理的主観的な見方・考え方によるところが大きいというのはつかんだような気がする。下を見る・下を向く以外にも主観的な幸福を感じるやり方はありそうに思うが未だ研究中だ。下を見ると言っても、見ている人に向かって馬鹿にしたような言葉や態度をとるわけでないので、個人の内面の持ち方の一つとしてそれでその人が幸せに暮らせるというのならとやかく言う必要もないような気がする。人それぞれ自分に合ったやり方(考え方)で機嫌良く面白い人生を生きてほしい。そしてあなたが見つけた幸福に生きるのにいいアイディアがあれば教えてください、参考にさせていただきます。勿論自分が見つけた秘訣はお知らせしますよ。自分だけ良ければ良いという考え方は自分も周りも幸せにしないことも学習済みですから。
☆この絵から何かヒントつかめます?
Dr.239 修行(1月5日)
初出勤をされた方も多いと思われるのに、定年後生活者ドクターは特に何もない日々が続いていて申し訳ない。特に大きなイベントは無くても禅僧の生活は寝て食べて清掃してお勤めして瞑想するだけで忙しいらしい。禅僧に倣ってドクターも特に大きな行事は無くても日常のルーティンを心を込めて行うことで退屈とおさらばして充実した日々を送りたいと考えた。何もない日を上機嫌で生きる修行だ。仕事や介護や闘病、その他にもいろんな悩みで格闘されている方から見れば何を贅沢なことをと思われるだろう。それはその通りだが、何もない日に慣れていないイベント好きのドクターとしては、平凡な日常を機嫌よく生きるのは結構難しく、修行という言葉がぴったり来る。そこでとりあえず家の周りの土埃が溜まっているところを掃いたり、スコップで土埃を取り除いたりした。そして禅僧のお勤めや瞑想の代わりにトレーニングセンターへ行ったが休みだったので戻ってきて近所を走った。そんなこんなしているうちに夕方になったので7回目年女の母と一緒に和食の御膳を頂いた。勿論般若湯(お酒)と一緒に。こんなんで修行と言えるんでしょうか。
☆市内うろうろ(托鉢)中に見た高城山(西側)とランニング中に見た高城山(南側)、最後の枯れすすきは修行中の心境を表す。まだまだ未熟ななんちゃって修行中だ。
Dr.238 ドクターブログを見ている人(1月4日)
年始の挨拶に妹一家がやってきた時、今は新潟に勤める20代の姪っ子に「おっちゃんは退職して嬉野台で冒険教育の指導をやってるんや(依頼はそんなになくて暇やけど)」と話したら、「知ってる。お母さん(ドクター妹)に言われておっちゃんのブログを見たことある」と言うではないか。驚いた。姪っ子までドクターブログを見るとは。ドクターブログの主な愛読者は、これまで『絶こうちょう』ブログを見ていて気の毒にもそれが習慣になってしまった学校関係者かこれまでドクターのお気楽な言動に触れ何であんないい加減でもやっていけるのか不思議に思った人がその真相を究明しようと見続けているかしかないと思っていた。この2大勢力以外にも見てくれる人がいたのだ。そういえば先日ある集まりでお会いした全くそんなものは見ないような感じの地域のおっさんが「時々フェイスブック見ています」と言われた。フェイスブックで発信はしていないので多分このブログの事だろう。これだけ(と言っても実例を挙げたのは二人だけで、しかも二人とも毎回見ている訳ではないが)老若男女の多様な人に見てもらっているとすれば、最近の主なテーマ「定年後の充実した人生を送るにはどうすればいいか」だけではいかんやろ。もっと多様なテーマを多様な切口で語らなくては。と思ってはみてもそんな力量が自分にあるわけではないし、先方もそれを期待してるわけではないやろと思い直し、これまで通り何やかやと煮え切らない気付き(自分勝手悟り)を語っていきたい。「何事にもこだわらない」というのが若者にも定年前後の人にもお勧めの生き方です。
☆「こだわらない」ということで、今日の写真は年末の「年越しイワシ」を焼いてる時のやつです。「毎回新しく魅力的な写真を載せなければ」というこだわりをなくせばブログでもなんでも楽に行けます。
Dr.237 減らす 手放す 忘れる(1月3日)
心配事や悩み・不安はもちろん、自分が持ってるモノやコトにも煩わされずに快適に生きるコツは「減らす 手放す 忘れる」ことにあるということを学んだ。そういえば昨年4月当初の机とパソコンぐらいしかなかった「ささやま冒険教育事務所」(いわゆるドクターの自室)は広くて快適だった。今ではこの9ケ月に溜まった物や書類で溢れていて窮屈だ。現役時代も最初は回ってくる書類を何でもかんでも保管していたが、すぐに引き出しが一杯になるし必要な時に必要な書類は出てこないことが分かったので途中から何でもかんでも見た後は直ぐに処分するようにしたが、特に困ったことはなく(周りは困っていたかもしれないが)快適だった。今改めて「減らす 手放す 忘れる」という教えに接し、今年はこれを心掛けていろんな煩いなく上機嫌でお気楽に行きたいと思う。特に「忘れる」は老化による物忘れもだいぶ進んできているので得意とするところだ。過去の嫌な思いや恥ずかしい思い出をいつまでも忘れないでいてもろくなことはない。ここはスッキリ忘れて、毎日のやることに集中したい。ただ心配なのはこの快適に生きるコツも直ぐに忘れてしまうかもしれないということだが、そんな心配も手放した方がいいということだろう。ともかくしばらくはこれで行ってみよう。
☆自室(ささやま冒険教育事務所)から雪のちらつく外を眺めながら、遅れている年賀状書きにいそしむドクター。誰に出して誰がまだなのかも忘れてやっているので、2回来る人や今年は来ない人がいたらすみません。気は楽だが、多分この教訓はこういうことをしろと言っているのではないような気もするなあ。