Dr.2390 時間を大切に(9月25日)
時間というものは誰にでも平等に与えられたものであり、人生の時間は人によって長短はあるが貴重なもので、大事に使わなければならない。お金よりも大事なものである。・・・というような時間の大切さについて書かれた文章を読んだ。
それはその通りだとは思うが、毎日課題もあって、一日何とか過ぎて夕食時の晩酌を楽しみに生きている身としては、貴重な時間が無事に早く過ぎてくれと祈っているような感じで、一刻一刻を貴重なものとして大事に充実しているかと言われれば、自信は持てない。
人生や時間を軽視している訳ではないのは勿論、自分の人生も誰の人生も大事なものだと思っている。いろんな課題が次々にやってくる今の状態としては(いつの時代でもそうだったかもしれないが)、何とか一日を終えて夕方にホッとしたいというのが正直なところだ。実際、一日の終わりが見えて、トレーニングで軽く汗を流して、夕食一杯までの時間が一日の中でも幸せな時間だ。
もちろん、それまでの時間の中にも、大変な事だけでなく小さな喜びやホッとする時間はちりばめられている。この小さな幸せにエネルギーをもらいながら、元気に陽気に、少しでも自分の言動で周りの人に元気を与えたい。それが自分の出来ること(貢献)だと思ってやっているのは間違いありません。これで時間大切にしてますかね。
☆まだ写真更新が上手く行かないので、6年前の今頃です。同じような写真を撮ってましたね。あれから6年、時間充実してました。後から考えれば、日々大事に生きて来たって思えるのかな。皆様、今日も何とか一日をボチボチやることをやりながら、できれば陽気に周りの人のためになることが出来ればと思いますね。


Dr.2389 無私心(9月24日)
それぞれ別の世界だが、96歳と94歳で活躍されている、御大の姿を見ていると、その原動力は自分のためではなく、周りの人の為、人々からの要望があるから活動されているというのが分かる。
自分のためだけに生きるのでは、こんなに長生き、しかも活躍は出来ないだろう。本当にすごい方が世の中にはおられる。真似したくても出来ない部分はあるし、90歳を過ぎて健康で、頭も発言もしっかりしているというのは、そんなに多くないと思う。
ただ、何歳まで生きられるか、周りの人から頼りにされるかどうかは別として、「私心を無くす」ということは考えなければならないことだと思う。若い頃は、自分の生計や家族の生活を支えるため儲けも考えると言うことはあるだろうとは思うが、子どもも手を離れ、そう贅沢をしなければ余生は何とかなるという状況や、そこまで明確でなくても、「儲け」や「自分のことだけを考える」という視点ではなく、周りの人のためや、公共の為に動くという視点は持っておきたい。
結局はそれが自分の存在意義でもあり、自分の生き方やりがい、存在意義にもつながると思う。ドクター言うところの「感謝と貢献」の、特に「貢献」の部分だ。先ずは、周りの人に元気を与える言動を大事にして行きたいと思います。
☆6年前の昨日です。小学校と一緒に運動会やってました。この頃も体育委員やってましたが、儲けのためではないです。自分にできることをやって行きたいと思います。それが誰かのためになっていれば、嬉しいことです。この「無私心」の姿勢、大事にして行きます。

Dr.2388 無(9月23日)
このブログを書くとき、大概は昨日や今日のこれまでを振り返って、頭に浮かぶことをネタに話を書き始める。今日は、特に何も思い浮かばないという「無」もあるけど、日々をあれこれ考えるのではなく、無心で、今日やる羽目になっていること、やる流れになっていることを、たんたんと取り組んで行く、そういう意味で「無」ということの意味を言っている。
あんまり、これを詰めると人生が「無」ということで、少し寂しい気もするが、「無」は価値が無いということではなく、取り越し苦労も含めて、あれこれ心配し過ぎずに、やるべきことにたんたんと当たって行くという意味で、それのほうがまだ来ていない未来を心配し過ぎて元気を無くしてしまうより良いという意味で「無」の価値を考えている。
裸で生まれて、裸で死んでいく人生。人生は所詮「無」ではないかという気もする。だから、生きる意味がないと言うことではなく、生かされている以上、「感謝と貢献」を忘れず、笑顔と陽気で生きて行くのが良いと思っているので、考え過ぎて、身動きが取れなくなるのは望むところでは無いと言う意味で、あんまり考え過ぎずに、今日やる事をやって行きましょう。皆様、今日も「無心」を大事に、流れに沿っていきましょう。頑張り過ぎずにボチボチ行きましょう。
☆昨日の慌ただしい出来事の中の、ほっとするひと時。こんな時も大事にしたいですね。

Dr.2387 一人ぼっち(9月22日)
昨日農作業(草刈り)を終えて、18時30分頃家へ帰ると、電気は消えて真っ黒で誰もいなかった。こんなことはこの頃あまり経験したことはなかった。大概は、誰か(奥様であることが多いが、息子の場合もある)がいて、電気もついている。
それから、普段滅多にしない洗濯物の取り込みなどをしながら待っていると、奥様が娘(普段は下宿してますが、この日は用事のため帰宅)と一緒に帰って来た。この間、辺りが真っ暗の中(もちろん電機は一杯つけましたけど)、一人で家にいるという久しぶりの「一人ぼっち」体験。
よく、人は一人で生まれて来て、1人で逝くと言われますが、物心ついてからは、ずっと誰かと一緒に居る。学生時代の下宿で一人のことはあったけど、あの頃は忙しく、寂しさなど感じたことはなかった。今後、さらに老いて来て、1人で暮すというようなことが無いとは言えない(勿論あってほしくないんですけど)。一人って、寂しいものですね。改めて感じました。これも慣れてしまえば、やっていけるのかもしれないし、そういう事態になれば、寂しいなんて言ってられないので、やって行くしかないんだとは思いますが。
やっぱり、人間は社会的動物って言われるだけのことはあって、一人には慣れてるように出来ていないのかもしれませんね。久しぶりに感じた「一人ぼっち」体験、普段味わわなくてよいことに感謝して、いつもの日常をさらに大事にして生きたいと思います。
☆普段ほとんど使わないウチの応接室に置かれている植物。寂しいなんて言わないで、たんたんと生を紡いでいます。見習うところありますね。今日もボチボチ何とか紡げますように。

Dr.2386 体力(9月21日)
村の野獣柵点検に出た。村の周囲には、猪・鹿避けの金網策が何キロメートルも張り巡らされていて、それで野獣の侵入から田畑・作物を守っている。親父の代頃から敷設されたが、毎年(収穫期は毎月)点検して、破れを補修しないといけない。
4人づつ当番になって、この頃は月に一回実施し、二人がペアで柵の前方と後方から、策に沿って歩き点検する。ドクターはまだ村では若手なので、いつもは急な斜面がある方の担当だが、昨日はたまたま本当の若手2人が参加したので、久しぶりに上り下りの少ない方の担当になった。
上り下りが少ないと言っても、山すそや山の斜面に張り巡らされた柵に沿って歩くので、なかなか体力は要する。一緒に回った先輩はドクターよりも5~6歳は上だと思うが、お元気で鉈やノコギリを使って、柵に絡みつく木や蔓を切りながら進まれる。
体力は維持している方だと思っているが、農作業は思ったほど進まないし、体力を使った日は消耗が激しい。昨夜は、疲れかどうかは分からないが、途中目が覚めて眠れなかった。
何やかやで体力の衰えは感じるが、今でも柵点検や農作業をはじめ何とか出来ていることに感謝しながら、できるだけ日々の運動を心掛け、しかし無理はしないでボチボチ身体は動くようにしておきたい思います。誰でも、病気をはじめ、今後どのような課題が待ち受けているかは分からない。やってくることに出来るだけの対処しながら、今の自分にできることをやっていくしかないのは、日常の生活と同じ。できれば陽気に対応して行きましょう。
☆先日行われた市内高校の体育祭。やっぱ、若者の体力はすごいですわ。


