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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.1242 陽気になれ(4月13日)

 生活してると、調子の良い時と思いもしないのに難題が飛び込んでくる時がある。無防備な時にそれが来るとダメージが大きい。

 陰気を去って陽気に過ごそうと心掛けているが、ダメージに弱いドクターとしては四六時中陽気でいることに苦戦することになる。マイナスの出来事も今の自分に必要なことだと考えて、陽気を保とうとしているがなかなか苦戦中だ。

 頭の中の理解だけでは心が納得しないのかもしれない。でも根本には自分は(自分だけでなく全ての人は)祝福されてこの世に生きている。自分の出来ることで人を助けたり笑顔にしたりするのが自分の存在理由と思っている。

 この根本を信じて、後は拘らず受け入れながら流れを受け入れて行けるところまで行こうと思っている。根本を信じるなら、陰気を去って陽気に行けるはず、いろんなことを考え過ぎず「あほう」になって陽気で今日一日を頑張り過ぎずに頑張ります。皆様もご一緒にボチボチ行きましょう。

 ☆陽気に生きてると身構えなくても嬉しいことに出会えるはずです。それに気付ける心の余裕はほしいですね。ドクターも余裕心掛けます。もう結構余裕もらってますから、欲張り過ぎずに行きます

Dr,1241 老後の生活研究(再)

 かつて定年後の生き方について随分考えた。関係書籍も読み漁った。なんせ経験のない世界なので、どうしたら充実した生活が送れるのか、そのヒントが知りたかったのだ。

 それから実際に定年後の生活が始まってみると、何かしらずっと仕事をしていたこともあって、それなりにすることもあり、そしてまたそのやっていたことが次のやることにつながり今に至っている。有難いことで、まさにご縁と流れでいろんなするべきことがやってきて、それらにバタバタ取り組んでいる間に今に至ったっていう感じだ。

 今またそうした定年後の仕事が途切れた後の生き方について考えて見ようと思ったのは、今度高齢者大学で「老後の上機嫌な生き方」について講演を頼まれているからだ。ドクターよりも人生の先輩を相手に何を語ればいいのだろう。ということで、関係書籍の購入となった。まだほとんど読んでないので、何とも言えないが結局、いろんな人が言ったり書いたりしていることは結局、自分はこうやって良かった、自分にはこういう考え方があっているということのようだ。ヒントにはなるが、最後のところは自分で考えなければならない。

 ということであれば、まだ買った本を全部読んでいないので何とも言えないが、結局ドクター流、流れ哲学を紹介するということになるのだろうか。ご縁と流れでやることになったことを精一杯といっても、笑顔と自分らしさをわすれず陽気に取り組むことが大切ですということになるような気がする。

 そんな生活ができていることに感謝の心をもって、自分のできる貢献(人のために)を忘れず、自分の持ち味を生かして無理し過ぎず頑張らないで頑張る。その方が自分らしいし、周りもそれを求めているし、より貢献が出来ると思うから。

 ☆久しぶりに勝った老後の生き方の本。しっかり研究して、老後と言わず、人生の生き方の参考にしたい。さらにヒントが見つかればご紹介します。乞うご期待(自分にも言ってます)

Dr.1240 別れ(4月11日)

 娘が大学生活を始めるので、下宿生活を始めるため家を出た。「行ってきます」のあいさつをしてくれた時、万感の思いが押し寄せてきた。

 考えて見ると私たちは、毎日人と出会って分かれている。ずっと一緒に居るのは自分だけとも言える。そういう視点で言うと、日々刻刻が別れだともいえる。

 普段はそんな別れの連続を何の感傷も持たずにすごしている。それは直ぐ(すぐの期間は人それぞれだが)にまた会えると思っているからだ。

 実際のほとんどは又会えるのだが、時々には本当に永遠の別れの場合もある。後になってそのことが分かっても、分かれる時に永遠の別れの予感が無ければその時は感傷なしに分かれることはできる。

 しかし人生何が起こるのかは分からないものなので、よおく考えると日々の出会いと別れがそれっきりの場合があるのだから、すこぶる貴重だと言えるし、自分の永遠の別れ(この世にいなくなること)もまた会えると思っていたのに、たまたま永遠の別れになってしまったという感じでたんたんと迎えることになるかもしれない。

 ここから分かるのは、「別れ」はまた会えると思っているから深刻にならずにできるが、それが永遠のことになることもあるから深刻に考えない日常の出会いと別れを大事にすることと、この世の最後の日もそんなに深刻に考えないでよくある日常の別れの一つとしてたんたんと行い、それがたまたま永遠の別れだったということになることを知って生きるということでしょうか。

 ともかく別れは寂しいけれども、必要以上に落ち込まず、流れやご縁の出会いや別れを受け入れて行くしかないですね。出来れば自分らしく朗らかに。

 ☆何百年も変わらない幽玄の世界。小さな個人の生(出会いと別れ)を超えている。自分の人生長くもあり短くもあり。今日もボチボチ行きましょう。

Dr.1239 忙中閑あり(4月9日)

 今日の新聞に「忙中閑あり」この言葉が載っていた。昔からよく聞くことわざで、ドクターも書にしたためて(というほどではなく適当に書いて)昔使っていた部屋の壁に張ってある。

 新聞解説や本来の意味はともかく、ドクターの場合はいつもバタバタしてるけど、バタバタの隙をついてホッとするひと時やこのために生きてると思える時間がやってくる。そのひと時(閑)が必ずやってくることを信じて、いつもはバタバタ押し寄せてくる事案に対処していきましょう。どうせ、何もすることが無い無風状態より、バタバタの方が性に合ってるのだから。バタバタで体力や気力を無くしてしまわないように、適当に(というと語弊があるから、「かたよらずこだわらずとらわれず」に)対応しながら、好機(閑)を楽しみに生きよう、みたいな意味を込めている。

 そんな訳で、バタバタ派のみなさん、バタバタの中にも時折やってくる良い時間が必ずあるコトを信じて、今日もボチボチ行きましょう。身体はバタバタしても、心は穏やかにね。

 ☆バタバタ一日の途中に見た枝垂れ桜や昔々に書いた「忙中閑あり」の書。昔からバタバタしていたし、自分のことを「丹吉」と名乗っていたらしい。人間って本質そう変わりませんね。というわけで本日もバタバタ一日が始まります、閑も期待して。

Dr.1238 どう生きるのか(4月7日)

 一足先に65歳になった同級生が後2年は働きたいと言っていた。市役所でいろんな経歴を経て1年ごとに働く臨時的任用で働く方々にも出会った。その中にはドクターよりも年上の方も何人もおられる。

 齢がいっても働くのは、お金のためもあるだろうが、それだけではないような気もする。生きがいや、生きて有効な時間の使い方にも通じる。年金などでお金はあっても、何もすることが無いという生き方はどうだろう。それが望みと言う方はそれでもいいだろうが、ドクターなどは退屈すると思う。

 そうしたら、何をやってどう考えて生きるのかと自分に問いかけてみる。かつてやっていた、冒険教育指導者、やりがいのある仕事ではあるが、もういいかなって感じだ。そうしたら何がやりたいのか、自問は続く。自問しながら生きることになるのかという思いもあるが、小人閑居して不善をなすという言葉もあるように、小人ドクターとしては閑居は今のままではよろしくないか。何かやった方がいいのは間違いないし、それは流れでやってくるという気も一方ではするが、果たしてどうなることやら。まあ当面は今のやり甲斐ある仕事を精一杯自分らしく陽気に勤めながら流れの見極めて自分を楽にする考え方を深化させよう。

 ☆満開の桜です。咲いてる時もあれば葉桜の時もある、ボチボチ行きましょう。

 

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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