Dr.1804 自分らしさ(12月9日)
視覚障がい者の方の生涯学習講座「青い鳥学級」の本年度最後の学級があり、閉会あいさつにいった。全五回の講座で、仲間の声を聞いて元気が出るという言葉も聞いた。ドクターは自分にも言い聞かせるつもりで、自分の生活を元気にさせるには自分で自分にはっぱをかけることも大事で、こういう講座にはこれからも進んで参加くださいというようなあいさつをして、最後はいつもの「これからも青い鳥学級に参加して、自分の生活元気で行くぞー」「オー」の掛け声をやった。
終わった後で、長く運営委員長をやっている方が、今度は「猿 猿 」をまたやってくださいと言われた。よく考えて見ると、昔(15年ほど前)にも青い鳥学級であいさつしたことがあって、その時にどうも狂言の謡いをやったらしい。自分の持っている芸で、その場の人を楽しんでもらうというのは昔からやっていたのだということに思い至った。自分では忘れていたが、どの時代でも、どんな立場でも、やってることは変わらないということが分かった。狂言の謡いは「うさぎ」だったと思いますけど。
自分らしさ、それが悪いものでなければ、それでいくしかないし、それをやり続けている自分が好きだ。大したことはやってませんけど、それが自分らしさかな。(人間と芸は浅いけど、人に楽しい気持ちになってほしい)。
☆これは別のシーンですけど、自然とこどもが好き(子どもに好かれる)も自分らしいですかね。
Dr.1803 身構える(12月8日)
職場のブログで、小学1年生の空手選手の突きをお腹にもらったら、大変強烈だったという話しを書いたら反響があった。本当にすごい威力だったが、大学から空手をやって、一応空手道三段のドクターとしては何とか腹筋を固めて強烈パンチをしのいだ。
この、相手と対戦する時、身構える、腹筋等を緊張させて備えるというのは大事なことだ。同じ突きや蹴りでも、無防備だと、本当に強烈にこたえる。痛さで倒れてしまうこともあるくらいだ。それが身構えて、身体を締めていると、その威力に何とか耐えられる。
この身構える、防御の姿勢をするというのは、精神的な場合でも有効だ。これは何か言われるのではないか、難題が来るのではないかと身構えていると、実際に来た場合もダメージは何とか耐えられる。それが無防備の時は、グサッと胸に刺さる。
だから、ドクターとしては、予知できる時は、この精神的構え(防御体制)をとるようにしている。それでも常時この体制だとしんどいので、構えを解くが、そのスキに思わぬ一発が来たときは応える。
空手の練習から身につけたこの防御体制(身構え)、こんなの無しに暮らせるのが一番だし、もっと修行してどんな攻撃でもひらりひらりと受け流せるようになる境地を目指したいが、まだそこまでいっていないので、当面は身構え体制を活かすしかないか。早い修行の完成が待ち望まれる。
皆さまも、きつい一撃に耐える、自分なりの防御術もお持ちください。そんなのなしに、自在に暮らせるのが一番ですけど。それには人生修行が要ります。
☆この奨励賞を受け取る少年がすごい一撃を持っています。子どもを侮ってはいけない、誰でも油断して無防備だと、すごいパンチをもらう時がありますね。
Dr.1802 簡単ではない(12月7日)
昨日のブログで書いたように、「柔らかい心」「とらわれない心」の大事さをつかんで、しばらくは(午前中は)快調に過ごせたが、午後になっていろいろと難しい案件に出会うとたちまち快調とはいかなくなった。
まだまだ悟りが足りない。修行が足りないと痛感した。一度、悟ったような気になって、快調に行くのだけれど長続きしないというのは、これまでからよくあることだ。だからと言って、悟りと言うのか、楽になる生き方を探らないのも違うと思っている。
課題は、どんな時でも、長く続く、快調な生き方、モノの考え方を身につけることだと思う。修行僧の方でも、長い長い修行がいるように、世間に生きている物として、悟りへの道筋がそんなに簡単でないのは当たり前のことだ。
こえからも、修行(いろんな生き方に触れる、いろんな生き方の本を読む、感じる、体感する、実践する等)を続けて、長続きする、どんな場面でもブレない、本物の悟りと言うのか、心の整え方を身に着けて行きたい。
流れとご縁を大切に、自分の出来ること(やらなければならないこと、やる羽目になったこと)を精一杯に無理せずボチボチやっていくというのは、結構良いと思っているのですが。
☆昨日書いた、豆の雑粒機です。左から豆枝を突っ込みます。硬いと粉々に砕けます。
Dr.1801 柔らかい心(12月6日)
柔軟さの大切さに改めて気付くことがあった。きっかけの出来事はもう少し前に会ったが、今朝その出来事の意味が分かった(気付いた)。
それは、乾燥した黒豆の枝から豆粒を取り出す(脱粒)作業中の出来事だった。乾燥庫から取り出した一束一束の黒豆の枝を、その束を結んである紐(ロープ)をほどいて、一本一本の枝を脱粒機に欠けるときに起こった。脱粒機の中は金属の突起がついたドラムが高速回転しているので、乾燥枝は粉砕され豆がでてきてそれが下に溜まって、ベルトで排出口から外へ出て来る仕掛けになっている。
何せものすごい力で回転しているので(そうでないと枝から豆粒を取り出せないので)、手でも突っ込もうものなら、ひとたまりもない。それほど激しい回転の中へ、本当は入れてはいけない紐が一緒に入ってしまった。そしてすぐに反対側の砕かれた枝が出て来るところから、何もなかったように元のまま出て来た。
これにはびっくりした。誤って紐を入れてしまって、紐が切れ切れになって出て来るか、ドラムに引っかかって回転が止まるかだと思っていたら、元のままの状態(全く切れていない)で何事もなかったように出て来たのだ。
瞬間、不思議に思ったが、次の作業に追われて、ゆっくり考える間がなかったが、今思うと、それは紐が豆枝と違って、柔らかかったからだと気付いた。高速回転ドラムは、固いものは砕くが、柔らかいものはくだけず、そのまま回転に沿って、外へ排出してしまう。引っかからなかったのが幸いだったが、固いものは砕かれるが、柔らかいものは壊れないという、何とも比ゆ的で興味深いことに気付かせてもらった。
人間の生き方も、固ければ砕かれるが、柔らかければ砕かれることはない。これからはより一層、固定観念を無くして、柔らかい心で生きて行きたい。皆さんも、ご一緒に柔らかい生き方で行きましょう。
☆柔らかい心を表現してみましたがどうでしょう。まあだいたいで大目にみてやってください。柔らかい心と大目に見るは違うか。まあこれもあんまり厳密に考えるのは止めて、だいたいでお願いします。
Dr.1800 変わりませんね(12月5日)
久しぶり(きちんとあったのは6年ぶりくらい)に会った方から、「変わりませんね」と言われた。あの頃と同じで、それほど老化していませんねという褒め言葉だと思うし、数年たっても若さをたもっていると見られるのは嬉しい。
人は歳と共に見かけも中味も変化(老化)していく。老化と言っても老熟や円熟と言う言葉もあるように、齢を重ねることで生き易く進歩する部分もあるとは思うが、多くは見た目も機能も落ちていく。
人は誰でも老化して、やがては寿命が来るのだから、老化を嘆くのは違うと思うが、見た目もいろんな機能(記憶力や視力など)も若さを保つのは嬉しいこと。そんな思いもあって、「いつまでも若々しいですね」「昔と変わりませんね」等と言われると嬉しいのだろうか。
「変わりませんね」と言われても、30代40代とは違うし、いつまでも60代前半で行くわけにも行かない。変化はあったとしても、見た目も内実も気持ちよく変化していきたい。見かけだけを気にするのではなく、内面で生き易くなるのが大事。内面が充実すれば、見かけもそれなりに見えるだろう(と思います)。
☆いろんな研修会で学んで、内面も外形も少しは充実させていきたいですね。ボチボチどこまで行けるか分かりませんけど。内面の気持ちよさを保つ、これを心掛けて行きましょう。