Dr.914 置かれた状況と適性(2月22日)
村の農業法人組合長と地域の農業の将来について話した。法人役員のなり手がなく、法人の行く末に不安を抱えているというのは共通した認識だった。次期組合長後継ぎ候補はいるけど、そういう人は他の役でもあてにされていて、なかなか簡単にはいかない。個人の農家で耕作できない土地を預かる法人の役割は大きいと思うが、なかなかこの集落営農組織を維持管理するのは難しい。現在副組合長の位置にあるドクターも期待されていたらしいが、農業についての知識と経験がなく失望させたようだ。村のために出来ることはしなければという気持ちはあるが、適性がなくてはどうしようもない。逆に適性はあっても、その役を任されるという状況に置かれていないとこれまた力を発揮できない。適性や能力は個人に属するものだが、どんな状況に置かれるかというのはいろんな要素がかみ合っていて個人の意思では如何ともしがたい。ドクターもこれまで、県立施設での冒険教育立ち上げや高校や特別支援学校での校長や教頭、市会議員といろいろ重要な役をやらせていただいたが、これも自分の力というよりは運(状況)に恵まれていただけとも言える。これからも、人のため地域のために働くという気持ちを忘れず、ご縁や流れによって巡ってきた状況の中で自分の適性が発揮できる役割を勤めていきたい。
☆農作業能力はないけど、法人の作業ブログを書くことはできるかと、地域の農作業の始まりを写真に収めた。置かれた状況で自分の出来ることをやって行きたい。
Dr.913 せっかち(2月21日)
妻の母の一周忌で三田市にあるお寺で法要を営んでいただいた。県外ご出身のご住職がこの辺の人はせっかちだというお話を話されていた。もっとじっくり構えて物事に動じないで生きて行けばよいという趣旨だと学んだ。このせっかちというのか慌ただしく落ち着きのない傾向は、より自分に当てはまる。何事にも絶対の自信というものがないので、周りの動向を気にしながらふらふらバタバタと慌ただしく生きている。思い返せば小学校の時から「落ち着きがない」と通知表に書かれていたように思う。この齢まで持ち続けている「せっかち」「落ち着きがない」性格は、そう簡単には改まらないように思うが、これまでの人生経験から学んだ「まあいいか」「仕方ない」「なるようにしかならない」という諦念に磨きをかけて、せっかちに動くがその結果にはこだわらないという自分にとって生き易い生き方を大事にしていきたい。そしてできれば初動の「せっかち」にも自制をかけ、泰然とお気楽に流れに任せて歩んで行こう。初春の法事で大事なことを学ばせていただいた。合掌
☆初春の梅花の前でこれからの自分の生きて行く道(生き方)に思いを馳せるドクター。
Dr.912 個性を活かす(2月20日)
妻に手伝ってもらって確定申告のネットでの申告をやった。簡単だと言われているが、パソコン音痴にとってはそれほど簡単ではない。適切な申告画面が出て、こういう操作を順番に進めていけば良いですよということが分かっていれば、入力自体は多少時間が掛っても何とかなる。先ずは適切な入力画面にたどり着くまでが、事前ソフトの入力やマイナンバーカードのパスワードや暗証番号、それがロックしてしまったので市役所へ行っての解除など相当苦労した。入力も最後の方までたどり着いて、一瞬「×」を押してしまってこれまでの入力が全てパーになったり、自己保存用のプリンター印刷でプリンターに紙が詰まって取り出すのに四苦八苦したり、結構難関だらけだった。それでも、その都度めげずに、出来る対処を臆することなくやり続ける妻の粘り強さというのか、バイタリティに本当に感心した。この粘りは自分にはないことを痛感させられた。また来年の申告の時にもお世話になりたい。翻って自分の長所というのか個性は何だろう。「お気楽」「上機嫌」「絶こうちょう」これらは上手く行っている時の長所だとは思うが、ちょっと上手く行かなければ直ぐに落ち込む。上手く行ったら調子に乗って、ダメならすぐに元気を無くす。これも素直という長所とも言えなくもないが、単純で弱いとも言える。良くも悪くもこの個性でこの齢まで生きてきた。ここはやはり長所を活かす形で最後まで行きたいものだが。
☆昨日ホールであった日本農業遺産認定のお祝いの会。やはり子どもがいると嬉しくなる。
Dr.911 お幸せな人(2月19日)
高校時代の剣道部仲間からチョット遅めのチョコレートが送られてきた。送り主欄に女子部員1名の名前があったので、このチョコはその人個人が密かな思いがあってドクターに送ってきたものと思い、その思いにどう答えたものかと悩んでいたら、後刻のグループラインで女子部3名から同じものが男子部3名へ送られてきたものと分かった。チョコ購入のお世話をしてくれた方が、うっかり個人名で送ったらしい。この齢になって、いくら個人名で送られてきたものであっても、そこに密かな思いがあると思うのは、(世間知らずの)「お幸せな人」だ。常識のある熟年者なら、そんなことを考えるとは考えられない。学校という狭い世界で生きてきたからなのか、天性なのか、小さなころから甘やかされて育ってきたからなのか、この齢になっても、よく言えば純粋、悪く言えば世間知らずのお気楽な傾向がある。「お幸せな人」は世間的には決してプラスの意味だけではないが、ドクター的には最後までこれで行けるのなら行きたい。いい面も悪い面も併せのんでの「お幸せな人」これで生きて行けたら嬉しいが、ご迷惑をおかけします。
☆高校時代の剣道部仲間からもらったビターチョコを頂く「お幸せな人」。
Dr.910 迷い(2月17日)
流れに従って生きるドクターとしても、流れに乗り切れないというのか、乗っていることに対する迷いが生じることがある。「流れを大事に生きる」哲学が徹底していないためだろうか。人生の物事に100対0の判断はない。10対90、20対80などは決めやすいが、40対60、51対49などは迷う。そもそもこの割合にしても絶対のものではない。迷いはしんどさにつながり生きにくい。もともと生きやすくなるための「流れ哲学」だったのに、何ということだろう。そうは言っても人生なるようにしかならなく、逆に言うとなるようになっていく、ここは初心に立ち返って「かたよらない、こだわらない、とらわれない」固執しないという自分の基準を大事にして、流れの行く先を楽しみながら見て行きたい。
☆議会のある日は流れで市役所近くの美味しい定食屋さんに行くが、美味しさと体重増加の心配に迷うが、流れで行くことになった日にはお伺いすることにしよう。