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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.781 勝手な時分(9月25日)

ここ2~3日はやることはあるし、用事の中にはやりがいやそれなりのストレスがあるものもあり充実しているはずだった。定年後生活充実の秘訣でも、「きょういく」(今日行くところがある)と「きょうよう」(今日用がある)が大事で、同じ用事でもそれなりにやりがいや責任、適度なストレスがあるものの方が良いと言われている。この説から言うと、ここ数日のドクター生活は充実の極みのはずだが、正直に言うなら「ちょっと面倒だなあ」と感じている。用事の中には自分から買って出たものもあり贅沢は言えないはずだが、いざその場になってみると毎日が日曜日、お気楽な方が良いのではと思ってしまう自分がいる。ここ数年の定年後生活で、毎日特にしなければならない用事がないことの面白無さについてしっかり体験したはずなのに、だから自分から用事を買って出たはずなのに、毎日用事がある立場になると、今度は「毎日がお気楽、ノーストレスが良い」と思ってしまう自分勝手さよ。これでは「用事が無くてもあっても、満足できない」ということになる。どうしようもない。こんな自分勝手な自分に愕然とするが、反省だけでは定年後絶こうちょう人生の秘訣にならない。この自分勝手さを乗り越える考え方を編み出さなければ。で、皆さんもうお気づきかもしれないが、結局は「流れ任せ」という結論になる。自分勝手な自分は認めながらも、最終的には自分を信頼して、何とか解決策を見出すだろうと信じ、ご縁と流れに任せて今日もやる流れになっていることをやって行くしかないか。

 ☆母が勧めてくれた布団に横たわる自分勝手なドクター。これも最初は自分はせんべい布団が好きだと言い張っていたが、母ご推薦のちょっとクッションのある布団に替えてみるとすこぶる寝心地が良い。用事があったらあったで「何も無い方が良い」と言い、無かったらなかったで「退屈だ」と言う。度し難い奴だ。

Dr.780 もう一つの人生(9月24日)

定年後人生の研究が続いている。子育てと社会貢献(仕事)等を中心課題とする第一の人生が50歳か60歳か65歳くらいで終わり、以降は自分のために生きる第2の人生が始まるという説も多い。第2の人生(もう一つの人生)は自分のためにあると言っても、社会や隣人に貢献し、人から感謝されることが生きがいにつながるという勧めもよくある。何はともあれ第2の人生では、いつ健康や寿命が終わってもおかしくない(そもそも長い人類の歴史の大部分は第一の人生で終わっていた)ので、その覚悟のもとにその日一日を如何に充実して過ごせるかを考えた方が良いとも説かれている。ドクターは、いつ人生が終わっても良い覚悟などはできていないが、一日を充実して絶こうちょう上機嫌に生き、そしてそういう毎日を天が終わりという日まで積み重ねていくしかないとは思っている。大事なのはその方策で、だからいろんな本を読んだり身近な人を参考にしたりして研究しているのだが、なかなか答えはみつからない。ある一瞬は見つけたように思い有頂天になるも、またしばらくたつと迷いがやってくる。その繰り返しでこれまでやって来たが、少しは真の答えに近づいているような気もする。万一その直感がはずれていたとしてもだんだん残り時間が短くなっていくのは間違いないので、最後は悟ろうと悟らまいと一巻の終わりだ。だんだん悟りに近づいているような感覚で終わりを迎えるのも悪くない。その悟りの内容については、その都度発信するつもりだし、今回もその一環のつもりだが、まだまだ右往左往で真の悟りには遠い。

 ☆秋のコスモス(宇宙)を見ながら、定年後のもう一つの人生の生き方について探求を続けるドクター。目下の答えは「宇宙や天の声(流れ)に従いたんたんと生きる」だが、これで合ってるのかなあ。

Dr.779 定年本(9月22日)

定年後生活研究家のドクター丹後としては、いろいろな「定年本」を読む。「60歳からの~」というタイトルの本も多い。定年後生活のためにどうすればいいのか、いろんな本に共通して書いてあるのが、①やりがいを持って生きろ、②年齢のことは忘れろ、③交友関係を広く持て、④生涯現役と考えろ、⑤何かを始めるのに遅すぎることはない、等だ。どれももっともだとは思うが、普通の人はそれができなくて困っている。「定年本」の著者には、大学教授や研究者、定年のない職業や講演等で食っている人が多いので、普通の会社や公務員等として定年を迎えた多くの人の現状と苦悩が分かっていらっしゃらない。「(本に書いてあることが)良いと思うならやればいい。できないのはやる気がないあなたが悪い」と言われそうだが、それでは「やろうとしても上手く出来ない」普通の人には身もふたもなく、参考にはならない。その点ドクターの主張は、「自然と成り行きに任せよう。流れによってやる羽目になったことを淡々とやっていけば時々は良いこともある」という誰にでも実践しやすい(というより、特にがんばらなくても「運」や「流れ」「天」や「神」を信頼していればいいだけというもの)だが、よおく考えるとこれも結局は何のアドバイスにもならないかもしれない。ドクターとしては結構いいと思うのだが。もっと分かりやすい表現を見つけたら、発表するのでお楽しみに。

 ☆「写真」や「俳句」を定年後の生きがいにする人もいるので、ドクターも撮ってみました。写真よりは「定年後研究」の方が自分には向いているか。

Dr.778 定年ぼっち(9月21日)

定年後の孤独を「定年ぼっち」と呼ぶらしい。このことが載っている本には、ドクターが前々回に書いたのに似たことが書かれていた(ドクターがこの本を真似して書いたのではない、多分)。会社には人生を充実する装置(役割)が備え付けられており、定年でそれを無くしてからは自分で人生充実(生きてて良かった、面白い人生だっとと思える感覚)の方策を探らなければならないというようなことが書かれていた。会社にある人生充実装置とは、①やりがい(会社の目的が自分の生きがいにもなる)、②人との交流、③ルーティン(決まった会議や打ち合わせ等で時間がつぶれるのと精神的な安定にもなるー何をやろうと悩まなくても良い)、④報酬(金銭的なものから人からの称賛まで)などである。定年でこれらのものが自動的についてきた会社と離れるのだから、自分でそれに代わるものを見つけなければならない。人との交流も現役時代は自然とあったので孤独を感じることはなかったが、定年後は意識的に自分で作らなければ孤独になる。孤独は悪いものではないと説く定年本もあるが、この本では定年孤独(定年ぼっち)は身体的にも病気リスクを高めると書かれていて焦る。ドクターの説く「流れや自然に任せた生き方」も著者は否定し、「そんな楽観論ではだめだ」と言う。ドクターの言う「流れ重視の生き方」は単なる楽観論ではなく、「流れを信じ、流れに従ってやる羽目になったことを全力(その時の環境で)でやれば、後は流れが導いてくれる」というものだと反論したくなるが、公式に反論するには本でも書かなければならない。ドクターが本を書く確率は0ではないが、それも流れ次第だ。今はいろんな本やこれまでの自分の体験を参考に、定年後充実策の実験を繰り返すしかないか。

 ☆お彼岸の日に「彼岸花」を見ながら、今日の面白い(絶こうちょうの)時間の過ごし方を考える(流れ次第ということも忘れないようにしながら)。

Dr.777 レジリエンス(9月20日)

心理学で人の「精神的な回復力」を示す言葉として「レジリエンス」というのがある。最近ドクターの周辺で骨折やマムシに噛まれた同世代の友人があいついだが、長い間(1月や1週間)の入院やリハビリ治療を経て回復した。回復は簡単ではないが、人間にはゆっくりでも傷を癒す力が内在する実例を見せられた。彼らほどではないが、ドクター自身も擦り傷を化膿させて何日も膿み続けた肘の傷がようやく治りかけた。このように人の肉体には回復する力があるのは目に見えて分かりやすいが、そこから類推して精神的にも回復する力が確かにあり、それを「レジリエンス」と言うのだと理解できる。「不登校」や「引きこもり」など精神的な打撃でで苦しむ人も多いが、そのうちの多くの人が回復し社会復帰を果たしている。もちろん回復や復元は簡単ではないが不可能ではない。人の心身にある回復力(レジリエンス)を信じ、回復を早める方法を研究しよう。最も早く早くと焦るのは良くないようだが、このレジリエンスを高める方法は、普通の人が機嫌よく生きるのにも有効だ。運動をする、音楽を聴く、呼吸を整える、そうそう日記を書くというのも良いらしい。このブログもドクターのレジリエンスを高めるのに効果があったのか。

 ☆明智光秀についての講演会に参加して、自分のレジリエンス(回復力)を高めるドクター。何がレジリエンスを高めるか、まだまだ模索中だがこの追求が「定年後の充実人生」のヒントと繋がっている気がする。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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