Dr.71 本来無一物(6月27日)
めったにはないがSAPで話をするときのネタに、「焦りや迷いが生じた時には、『死んでたかもしれない体験』を思い出し、理想通りには行かない毎日だがあの時死んでたかもしれないことを思えば生きてるだけで良しと思おう。生きていて、ちょっとでも前向きな生き方が出来てるとすれば上出来やないですか」というのがある。自分自身もよく理想の生き方「お気楽な毎日」ができずに落ち込むときがあるが、その時には、酔いつぶれて雨の中で寝てしまっていたのを隣のおっさんに起こしてもらい命拾いをしたことや寝ぼけてバイクを運転していて崖の側の植木に突っ込んで目が覚めたことを思い出し、あの時死んでたかもしれないんやから、今生きていて少しは人に喜んでもらえることができてるだけでも上出来やないかと思い直して落ち着きを取り戻すという体験から思いついた話なのだが、今日「本来無一物」(ほんらいむいちもつ)という禅語を知り、趣旨は同じやと勝手に合点した。「本来無一物」とは「一物」がどうのこうのというエッチな話ではなく、人間は物・財産・家族・恋人・仕事・健康・(より良い生き方)などせっかく手に入れたものを失いたくない、より良いものにしたい、より確かなものしたいと執着して、少しでもそれらを無くすと落ち込むが、本来私たちは何も持たずに生まれ何もかも手放して死んでいく存在であることを思い出すと楽になれるという意味のようだ。ドクターが若き日の蛮行で死んでたかもしれない自分を思い出し焦りや落ち込みを静めるのと同じではないか。独考で禅語と同じ考えにたどり着くとは、やはり自分はただ者ではない。こんなことを言うとまた妻から「自画自賛」の「お幸せ者」と言われそうだが。
☆炎天下の黒豆苗移植。ドクター苗は未熟なのでよく見ないと見えないが、大きく育った苗が植わる他所の畑と比べてはいけない。本来何もなかった畑に、これから大きく育つかもしれない苗が植わったことだけでもありがたい。
☆木陰で休むドクター。天下国家の動きとは無関係だが、元気に生きてるだけでありがたい。