Dr.159 異常(10月5日)
「異常」と言っても最近の天候や自然災害のことでも、ドクター家の菓子パン購入数(毎日7~8個)のことでもない。このブログ『ドクターのお気楽な毎日』のアクセス数が伸び始めたことだ。現役時代の『校長先生絶こうちょう』ブログは1日平均1000回以上のアクセス数があったが、この㋃ドクターブログを始めた時は200回程度であり、それから毎月減少して8月には150回程度となっていたが、それが9月から上昇に転じ、10月は今のところ4月を超えている。毎月下がるのが通常だったのから見れば異常だ。誰か(自分含む)がアクセス数の落ち込みに気を落としているドクターを可愛そうに思い、一人で毎日100回ぐらいアクセスしてくれてるとしか思えない。ありがたいことだが最近、最期が近いのかとみに悟りの境地に近づきつつあるドクターは何事も受け入れる心持が完成しつつある。起きてしまったことや自分にはどうしようもないことは受け入れられるようになってきた。アクセス数の毎日の増減などは気にしない(その割には、今回のネタはブログアクセス数から来ているが)で生きていけるようになったので、頻繁なアクセスで貴重な時間とパソコンを酷使されてる方がいるとすれば無理をなさらないようにお願いしたい(無理なアクセスを止められる場合は少しづつ減らされるようにもお願いしたい。急に減るとまた心が動揺して、折角の悟りの境地がなくなりそうなので)。
☆ブログ管理サイトで毎日のアクセス数をチェックする悟りの境地に入ったはずのドクターと月ごとのアクセス数グラフ。下がるのが常態のグラフが上昇するという異常な状態になっている。できればこの異常な状態が続いてほしい(どこが悟っとんじゃい)。

Dr.158 ドクターで良かった(10月4日)
小学生の冒険指導をしたが、彼らの性格が良かったのか、こちらが年齢をとって孫を可愛がる心境になったのか、ともかくとても可愛い連中だった。最後の振り返りでは、「仲間を信じることの大切さがわかりました」「みんなが応援してくれるから挑戦できたと思います」「みんなで解決に向けて意見を出し合うことが大事だと思いました」「楽しかった」等という感想の後に、いつもおちょけていた子がもう一ついいですかと言って「ドクターで良かった」と言ったのを皮切りに、「ドクターで良かった」という声が相次いだ。その場の雰囲気もあったと思うが、子ども達からこんなに「あなたで良かった」コールをもらったことはなく、思わず眼がしらが熱くなった。すかさず子どもたちから、「ここで泣かんかい」というツッコミも入ったが、ホントに面白くって楽しい連中だった。中には、ドクターの年齢を「60位でしょう」とか、体重は「80キロくらいでしょう」とか鋭い観察眼を持った子もいて、子どもはまだまだ未成熟のところもあるけどあなどってはいけないということを再認識させられた。「子どもから学ぶ」という、ドクターが教師になろうと思った原点を思い出させてくれた。教師生活を終えた今、どれだけ学べたかと言えば心もとないが、いくつも思い出す顔とエピソードがある。それらは間違いなく今の自分の血肉となっている。教師を辞めた今も冒険教育などで子どもと関われる幸せを噛みしめながら、ふとこんな心境は人生の終わりに感じるものではないのかしらんと思った。本当に人生の終わりが近いのかもしれない。気を付けよう。
☆天候に恵まれた嬉野台生涯教育センターでの冒険活動の様子。


☆個性満開の生き生き子どもたちでした。子どもたちが大きくなる過程で、いつかまたこの日のことを思い出してくれたら嬉しい。これってやっぱり終わりが近い人の心境か。

Dr.157 種を播く(10月3日)
大学院時代の先生に押していただいた「来る者は拒まず去る者は追う」という方針を、現役時代高校現場では大切にしていた。まだ成長途上の高校生に一時の決断で学校を去らせてはいけないという思いだ。引き止め引き留め、やるだけのことはすべてやった上で学校を去った生徒はいたが、それでも悔いは残る。それとは少し違うが、定年後の生活では「来るモノは拒まずやってみる」という方針で、できるだけいろんなご提案を引き受けようとしている。その一つが先日あった「高校生地元就職応援委員会」だが、そこには企業関係者や学校関係者等が集まり、如何にして地元の若者に地元企業に就職してもらえるかを議論している。委員の皆さんはみんな熱心で、委員長として司会をしながらそれぞれの意見に感心したり、疑問に思ったことは聞いてみたりして、なかなか充実した時間を過ごさせてもらっている。委員会を運営する事務局の方は大変だと思うが、委員長ドクターは「いろんな意見が出ますので、もうまとめることはあきらめましたから、さらにどんどん思いついたことを発言してください」と宣言して早々に議長の役割を放棄しながら議論を楽しんだ。困った委員長だ。その中である委員から出た「種を播く」という言葉が気に入っている。いろんな施策がすぐに成果(地元就職)に結びつかなくても、市の魅力や市内企業の情報などの種を播いておけば、いつか芽が出る(地元就職に結びつく)という考え方だ。世間は早急な成果を求めがちだが、長い目で見て種を播いておくことが大事ではないだろうか。今回ノーベル賞を重唱された先生もそのようなことを言っておられたし、ドクターもそう言っておられる。全然レベルが違いますけど。
☆いろんな意見が出た委員会。種を播くことの大切さを学んだ。

☆嬉野台生涯教育センターで冒険指導しながら、子ども達に将来の人生に役立つ種を播いた。つもりですけど、逆にドクターの心に種を播かれたかもしれません。

Dr.156 意味が分からない(10月2日)
昨日、町で後ろ向きに歩いて帰る小学生を見かけた。車が通る通りからは一本奥まった道路だから、交通安全的には絶対危ないということでもないが、後ろ向きに歩いている意味は分からない。多分、いつも前向いて歩いているのに飽きたのかもしれないし、好奇心かもしれないし特に意味はないのかもしれない。意味が分からないということで言えば、この頃毎日行くスポーツセンターのベンチに座って一人でしゃべっているおっさんも見かけた(同じような傾向はあるがドクターではない)。口の中でブツブツつぶやくというような程度は超えて、身振り手振りも交えてはっきりとしゃべっている。「誰と話しておられるのですか」と聞こうとして思いとどまった。「けったいなおじさんをそっとしておくことができない変なおっさん」の絵が目に浮かんだからだ。しかし、考えようによっては、この小学生やけったいなおっさんの行為は評価できるのではないか。世の中、意味を求めすぎているのではないか。何の意味もないけど「やりたいからやる」「やりたいという明確な意思もないけど自然とやっている」ということがあって良い。これが完成すれば悩みから解放される。一風変わった小学生とおっさんを見て思いついたことを書いてみたが、この文章にも特に意味はない。
☆特に意味はないけど撮ってみただけの写真。意味を書こうと思えば書けるが、無くても生きていける。



Dr.155 どこを走っても(10月1日)
これまでの人生で、旅行や交流や仕事の合間などにいろんなところで走ってきた。遠くはハワイやアメリカやオーストラリア、近くは猪名川道の駅やJR相野駅周辺など、滞在先や車で走っていて走りやすそうなところなどを見つけると走ってきた(ドクターカーには常時着替えとランニングシューズが積んである)。先日もかつての同僚の皆さんと宿泊宴会をした翌朝、近くの公園を早朝ランニングした。どこを走っても景色はもちろん違うが、走っている間の爽快感や、走り終えた後の「これでおいしいビールが飲める感」は変わらない。これらのために走ってきたと言えるし、大げさに言えば「これらのために走るために生きてきた」とも言える。大げさで良ければ、「ブログを書くために生きてる」とも、「おいしいコーヒーと一緒に菓子パンを食べるために生きてる」や「スポセンでトレーニングした後のビールのために生きてる」などいくつでも挙げられる。ビールと菓子パンがメインなことでもわかるようにどれもあんまり高尚でないが、「高尚な人生の目的がなければ生きていけないということはないことを実証するために生きてる」とも言える。理屈はともかく、今日もどこでもランニングやトレーニングなど好きなことをしながら平凡な楽しさを味わって生きたい。
☆心置きなく話せる旧知の同僚と楽しい時間を過ごした後のどこでもランニングは格別だ。

☆久しぶりに妻と行った10割蕎麦のお店でビールと冷酒を楽しむという小市民的幸せを味わうドクター。これはめったにない極上の幸せでした。妻には大きな声で話すな、何でも写真に撮るなと叱られたけど。


