Dr.683 つながり(5月30日)
新型コロナウィルス禍で人とのつながりが減少したり不安が増大したからか、定年や失業で会社や社会と触れ合う機会が減ったりした人も含めて人とのつながりを求める人が増えた(ように思う)。そうした事情を抜きにしても普段から人との付き合いが苦手な人や話下手の人なども、人とのつながりを求める気持ちは切実だ。人は社会的な生き物だから衣食住などの経済面はもちろん、精神面でも一人では生きていけない(もしくは生きにくい)。達観者の中には煩わしい人との接触を断って孤高で生きる人もいるかもしれないが、凡人の私達には人とのつながり無しに生きるのは難しい。周りからは人づきあいが多そう(上手そう)に見えるドクターも内実はそうでもなく、特に気の合う人や頻繁に行き来する人は少なく、特にここ最近は「つながり」を求めて旧知の親しい人に会いに行ったり、飲み会を再開しようとメールしたりしている。旧知の気の合う人と昔話をするのは楽しく元気が出るが、いつまでも昔話を続けるわけにもいかない。これからは新たなつながりを築いたり古いつながりを大事にするとともに、そこそこ一人でも生きて行けるような精神修行にも励みたい。未熟なドクターは修行しなければならない分野が多く、生きているうちに修行が完成するかどうかは自信がない。
☆昨日は地元の小学校で休校中の子ども達とインターネットを使ってコミュニケーションをとる先生の様子を見せていただいたが、やはり子ども達にとっても先生や友達とのつながりはとても大事だ。


Dr.682 大きいこと小さいこと(5月29日)
足の真ん中指の爪の端っこに逆むけができて、夜寝ていて足を動かすごとに布団に引っかかって痛みが走って困った。かといって起き上がって爪切りを探して逆向けを切ろうとするのも却って眠気を覚ますと思い、朝まで痛みが気になりながら眠った(正確には寝たり起きて痛みを感じたりしていた)。世の中にはもっともっと大きな痛みを抱えている方もおられるのに、足の指の爪の端っこごときで大騒ぎするのは恥ずかしいとは思いながらも、昨夜のドクター丹後にとってはそれが結構大きく気になる問題だった。そこで又ここから人生一般の問題に話が飛躍するのだが、ある人にとっては大きな問題でも、他の人から見れば「なんだそれぐらいの小さなことでワーワー騒ぐな」というようなことはよくあるのではないか。ある問題(こと)を大きく感じるか小さく感じるかは個人差が大きく、一般的客観的には判断できない。今回の新型コロナウィルス問題や国家財政の赤字拡大など誰が見ても大きな問題と思えるようなものもあるが、ある問題の解決がどれほど重要かどうかは人によって違うことを忘れず、その人の身になって考えるようにしたい。また反面、自分ではその時どうしようもなく大きな問題と思っていても、時が経ったり見方を変えれば、なんでこんなことで悩んでいたのだろうかと思えることもあるので、悩みの渦中にある時は一歩そこから離れてみることも大事ですよね。
☆足の指の爪がささくれ立って痛くて度々目覚めたドクター丹後。こんな小さなことでと思いながらも、昨晩の自分にとっては結構大きな問題だった。今朝爪を切ってからは「なんでこんなことで騒いでいたの」というような小さな済んだ問題になりました。

Dr.681 お気楽なだけでは(5月28日)
このブログは現在では「丹後まさとしの絶こうちょう日記」だが、かつては「ドクターのお気楽な毎日」だった。「お気楽」は「上機嫌」や「絶こうちょう」と同様ドクター丹後の大事にする生活目標だが、「お気楽なだけでいいのか」という疑問が、昨日の市教育委員会傍聴をきっかけに湧いてきた。昨日丹後新人議員は関心のある教育問題がどう扱われているのかを知っておこうと、過日に引き続いて教育委員会の審議を傍聴した。傍聴は誰でも出来るが、昨日は一人だけだった。傍聴は何時退席しても、居眠りしていても何も言われないというお気楽なものだが、その代わり質問も意見も言えない、出席の委員や市役所職員も傍聴者には誰も注意を払わない。そんなお気楽な傍聴を続けていて、これは「(出席していても)せがない」「面白くない」と思えてきた。そして、さらに「お気楽な毎日は本当に目指すべき生き方だろうか」という疑念が頭をもたげてきた。普段の生活が忙しかったり、責任や役割がいっぱいの人はタマには「お気楽な時間」を持ちたいだろうが、毎日がお気楽だとどうだろう。世の中には(特に定年退職者の中には)毎日の自由時間を上手く自分の好きなように使っている達人も多いが、未だ達人の域に達しないドクターは毎日が自由時間だと手持無沙汰で落ち着かない。かと言ってかつての現役時代のような責任も重く忙しい日々に戻りたくはない(現役時代もお気楽そうだったと言う証言もあり)。まだ議員生活の何たるかが分かっていないのでこんな悠長なことを考えていられるのだろうが、忙し過ぎない「やりがい」と退屈しない「お気楽」はないものかしら。
☆教育委員会を傍聴しながら「お気楽」について考えるドクター。そもそも傍聴をお気楽と考えるのがおかしいという声も聞こえるが、今朝の好天を心底お気楽に楽しめる人間に成長したい。お気楽を楽しむには度量(人間成長)が必要ということか。



Dr.680 晴れのち雨のち曇り(5月27日)
臨時の丹波篠山市議会があって出席した。新型コロナウィルスに関わる条例の改正や補正予算等の審議を行った。感染症に関わる消防署員等の特殊勤務手当を上乗せすることや半額弁当に続く商店活性化策(まるいの宝くじや商店のサービス合戦等)に対する支援、上水道料金の3ケ月分基本料金割引、新型コロナウィルス対策基金の設立などの議決を行った。議員提案で二人の方が議員の期末手当(6月12月ボーナス)を全額カットして新型コロナウィルス感染防止対策の財源とする案を提出されたがこちらは否決された。ドクター丹後としては、コロナ禍で苦しんでおられる市民が多い中、議員も痛みを共有して少しでも対策に回せるお金を増やせるなら議員報酬のカットは必要だと思っているが、今回提案の6月12月ボーナス全額カットはチョット極端だ。自分としては6月ボーナスの何割をカットするかとか、視察などが出来ないために浮いたお金を基金に回せないか等を議論したかったが、議会運営に不慣れな新人議員の悲しさ、どのようにすればそのような実質的な議論が出来るかが分からず、本会議で意見も言えず、不本意ながら今回の極端提案に賛成できなかった。今後どのようにすれば自分の思いが政策に実現できるかを探ります。最初は久しぶりの本会議出席で晴れやかだった自分の心も議会が終わった午後からは実際の天気と同じく雨が降り、その後は曇りが続いている。これまでの人生でも晴れのち雨のち曇りが繰り返しだったように思うが、この傾向は結構普遍性があるのだろうか。なかなか毎日晴れとはいかないものですね。
☆議会後の土砂降りで、農作業も出来ず、ジムも閉まって汗を流すことが出来ないのでサウナで汗を流そうと、いくつかの温泉を調べても多くの施設が休館中で泣きそうだったが、ダメもとで市内の宿泊施設を尋ねたら入浴が出来るという、喜び勇んで入浴したら、サウナは中止でがっかり、仕方がないので温泉長湯で汗を流す。あれっ、これも「雨のち晴れのち曇り」じゃないですか。人生そんなもんですね。

Dr.679 何故農業をするのか(5月26日)
合間を縫っての農作業をしながら、「自分はいったい何故農業をしているのか」考えて見た。まず思いつくのが「農村に住んで、父(先祖)から受け継いだ農地や農機具がある。田んぼを何も作らないでほったらかしにできないのでやっている」というのが一番の答えだ。それじゃ嫌々農作業をやっているかと問われれば、そうでもない。農作業はきつい面もあるが、自然の中で汗をかくのは、肉体的にも精神的にも健康に良い。農業は赤字だが、親の代からの機械や作業小屋や積立(既に使ってしまった)があるので、自分の日当を考えなければもう少しは続けられる。周りに人も、ドクター農業より作物の売り先を考えて儲けを増やす等の工夫はされているが、大体は同じような感じではないか。肉体的や経済的な理由で農業が続けられなくなるまでは続ける人が多い。農地の維持や食料の栽培(自給率の向上)のことを考えれば、大型農家や集落営農などの中心担い手農家に農地を集約する方が合理的だが、農村から農業を離れる人をこれ以上増やしていいのかという疑問もある。担い手以外の小さな農家(兼業農家)も農業が続けられるようにするには、農業収入を増やすか農業機械購入の補助をするか等の策が必要だが、それには公金の支出が伴う。公金を出してでも小さな農家を維持するかどうかは賛否の分かれる問題で、人々の意見を聞きながら最終的には政治が判断することだと思うし、その解決のために政治家になったとも言えるが(ドクター政治家を志す理由の一つ)、未だ迷いがあり、勉強中だ。迷い中にでも毎年の耕作は続けなければならないので、今後も時間を見つけての中途半端農業(専業でも廃業でもない)が続く。一般的には中途半端や優柔不断はよくないこととされるが、ドクター人生はこれまでそうだったし、案外ここらあたりに農業(農村)の維持発展のヒントがあるかもしれない。
☆農業振興に一発解決の妙案はないが、優柔不断農家でも農作業の合間に見る農村風景は素晴らしく、何とかこれを残す方策を探りたい。





