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丹後まさとしの絶こうちょう日記

Dr.543 果報なことよなあ(12月27日)

先日知人が長い間放置されていたお茶畑の整備をボランティア仲間と手伝った時に、その地域の人が畑の持ち主の年配女性に言った言葉として教えてくれたのが「(若いボランティアに自分の畑の整備をしてもらえるなんて、なんてあなたは)果報なことよな」という言葉だ。「あなたは恵まれている。良かったね」という意味だと思うが、言われる方はもちろん嬉しいし、言う方の人も他人の良かった点にスポットを当てその人を元気づける発言が出来るということで素晴らしいと思う。この言葉自体もいい響きだし、これからはドクターも他人だけでなく自分にもこの「果報なことよなあ」をどんどん使って行きたい。人はともすると自分や他人の欠点や恵まれていない点ばかりに目が行きがちだが、欠点やマイナス面の指摘は言われた方の元気とやる気をなくすだけだ。中には自分の欠点を指摘され発奮や感謝する人もいるかもしれないから、そういう人には欠点指摘もいいかもしれないが、少なくともドクターには適用しないでほしい。それよか今回学んだ「果報なことよなあ」や「ドクターは癒しやは(ドクターは卑しいではない)」の方がグンと元気が出るのでこちらをお願いしたい。人にお願いするだけでなく、自分もどんどん人の良い所を見つけ、その人が元気が出るような言葉をかけていきたい。こんな拙いドクターブログを読んでくださるみなさん、皆さんがおられるから毎日自分の思いを発信できています、「(なんて自分は)果報なことよなあ」。って言っておきながら、今晩は数少ない友人との飲み会のため神戸に泊まりますので明日の発信は休まさせていただきます。「勝手なことよなあ」

 ☆冬休みで帰省している息子にホームグランドの冒険施設を見せて、父のやっている冒険教育について熱く語った。「果報なことよなあ」

Dr.542 一陽来復(12月26日)

冬至を境にだんだんと日が長くなるように、衰えかけていたものがまた回復軌道にのることを「一陽来復(いちようらいふく)」と言うらしい。衰えていたものが調子よく回復するのは良いことなので一陽来復は元気が出る思考というのか表現だが、回復した日の長さや運気はまた衰えていくわけだから、人生や運気も季節や日の長さのように循環し、良い時もあれば悪い時もあるということだろう。また一陽来復やその反対の過程でも、その中身を詳細に見ると一直線に同じ傾向が続くということではないよいうに思う。来復中でもデコボコはあるのではないか。全体としては来復過程にあっても、日によってあるいは時によっては調子の悪い時もあるのが人生の一陽来復だ。ドクターの定年後生活も調子のよい時もあれば、落ち込むときもある。もう吹っ切れたと思っていても、やはりずっとは調子よく行ききれない。これがなかなかやっかいだが、年を経て経験を重ねた分、その落ち込みを少なくはしたい。それだけの学びを溜てきたように思うが、そう簡単にいかにのが人生だ。いったいいつになったら、継続的な「一陽来復」過程に入れるだろうかと思うが分からない。修行は続く。

 ☆写真の木々も若葉・繁茂・落葉を繰り返す。

Dr.541 没我の境地(12月25日)

いつも聞くFMラジオでギターデュオゴンチチの松村さんが「ギターを上手く弾こうとか思うのではなく、音楽を信頼して、自分もその一員としてそこに加わる。つまり没我が自分のスタイルで音楽を長くやってこられた秘訣」みたいなことを話されていた。そういえばかつてやっていた狂言でも台本を信頼して変に笑わせてやろうなどと思わず、素直にそのままやるのが大切と習った。変に我を出すとわざとらしく長続きしないということか。無理に我を出さなくても、自然とその人らしさがにじみ出てくる。これはドクターの冒険指導、もっと言うと生き方にも当てはまるのではないかとピンときた。自然体でやるべきこと、やる流れになったことをやっていても、ドクターらしさが出てくるのではないか。これまでを振り返っても、自分らしさをもう一つ出せていないと思っていた教頭時代や副所長時代でさへ、当時の人は「丹後さんがいると場が和む」と言ってくれる。「人生は没我で良い」ということになると、これからの人生は楽だ。自分らしく生きるにはどうしたらよいか、自分の人生における使命は、などと気張らず毎日をたんたんと没我で送ればよい。でもこれは「いつまでも夢や希望を忘れずそれに向かって燃えて生きる」派の生き方とは違うように思うが、さてどちらが正しいのだろうか。あっ、没我派はそんなことに悩まないのだった。やはりドクターは一つの(生き方)派には徹しきれない優柔不断派かもしれない。

 ☆ドクターは毎日運動を欠かさない元気なスポーツ派だが、これにも徹しきれず体力は確実に衰えていて、またそれが気になる憂い派でもある。

Dr.540 神は細部に宿る(12月24日)

何度かこのブログで取り上げたと思うが(本当は取り上げたかどうかも覚えていないが、記憶力がめきめき低下してきている今となってはこの表現が便利。今のところそれはまだ覚えているようだ)、モノの本質は小さいこと(ディテール)に出るということを「神は細部に宿る」と言う(と思う)。この間、村の忘年会があったが、集会場で鍋をした後で、ある人が持参した生牡蠣を焼いて食べようという時にこの原則が見られた。生牡蠣は中るかもしれないと食べるのを躊躇する人は普段の生活でも慎重な人だし、大丈夫大丈夫と生焼けでもどんどん食べる人は日常生活でもお気楽で思い切ったことをやる人だ。率先して焼く役をしてくれた人はマメな人だし、それをみんなに配る役をしてくれた人は普段でも世話をよく焼いてくれる人だ。ドクターといえば、焼く網の側にはいたが特に何もせず、牡蠣は食べたいけれどもあたったら嫌だしとしり込みしながらみんなの様子を伺い、大丈夫そうだと分かった後で、上手く焼けたそうな牡蠣を選んで食べたけど半生で、行きがかり上食べたけど後でいつお腹が痛くなるかもしれないと心配するという何とも情けない行動をとった。でもようく考えると、この生ガキ食に見られた行動は自分の本質をよく表している。心配性でいっけん慎重だが、慎重に徹しきれず雑で軽率な行動をとって後で後悔するということはこれまでにもいろんな場面で体験済みだ。「神は細部に宿る」の原則は正しいことを再確認したので、これからは日常の些細な行動から自分の本質をつかみ、自分の本質をかみしめながら生きて行きたい。「自分の本質を変えたければ細部から変える」「習慣を変えれば本質が変わる」という言葉も知っているが、「人間の本質(本性)はそう簡単には変わらない」のはこれまでの人生で体験済みなので、「人生なるようにしかならない」「流れに従って生きる」やっぱりこちらで生きたい。

 ☆この間もらったクリスマスグッズ着けてみたけど、自宅の前で一人っちゅうのは寂しいやろ、これも「友達少なくて寂しがりやけど、ちょっとおもろいことしたい」ドクターの本質(神)がよく出ている。

Dr.539 他人に期待し過ぎてはいけない(12月23日)

いろいろと自分を楽にする言葉や考え方を探してきたが、今回見つけたのは「他人に期待し過ぎてはいけない」という言葉だ。他人を信用するなということではないが、他人に期待し過ぎると、期待通りでなかった時に失望や腹立たしさの感情が生まれる。それよりも最初から他人に期待していなければ、ちょっとでも自分のためになることやプラスの言動があったら嬉しさや感謝の心が生じる。「過去と他人は変えることはできない」これもドクターが得意としている他人の言動にイライラしないで済むのに効き目のある言葉だが、変えることが出来ない他人に期待しない方が良いというか、期待しようとしようまいと他人は思い通りにならないわけだから、期待して期待通りでなかったら失望するというのは割に合わない。それよりも期待しないでいて、他人が何もしなかって当たり前、ちょっとでもプラスのことをしてくれると喜ぶという方がずっと良い。ドクターなどはこの言葉をさらに進めて「自分にも期待し過ぎない」という域を目指している。大きな流れに従ってたんたんと生きると結構面白い生き方ができるという意味で自分の人生を信頼はしているが、さりとて誰もが羨むような人生が待っていると期待し過ぎると、そうでなかった場合(普通はそう)に自分を苦しめる。他人にも自分にも期待し過ぎず、こんなもんやろと思いながら人生を送るというのはどうでしょう。これではあんまり夢がなさすぎるか。

 ☆クリスマスムード漂う宿泊所に泊って、かつての同僚の人たちと旧交を温めた「温泉友の会」。この会は楽しいが期待し過ぎない方が良いのは人生と同じ。

  • 丹後まさとしの絶こうちょう日記 ドクターのお気楽な毎日(~2020年4月)

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