Dr.1184 有難い(2月6日)
ありがとう、有難いの語源は仏教の「有ることが難い」(めったにない)から来ているようだ。仏教ではそもそも人間に生まれること自体が、あまた生物がいる中で滅多にない幸運で感謝すべきことと教えている。
一般的には「有難い」「ありがとう」は、滅多にない好意を受けた時などに発したり、感じたりするが、このコロナ禍でこれまで当たり前にできていたことが出来なくなって、従来当たり前と思っていたことが多くの幸運がつながってできていたということが分かった。
私たちの通常の日常が実は有難い(めったにないこと)だということに気付かされたのである。コロナ禍の制限や災難は辛いことだが、日常の有難さに気付けたことは意味があると思う。
これからは日々の暮らし・出来事に感謝の心をもって、丁寧に味わいながら過ごしていきたい。そうすれば自分も周囲の人も暖かく生きやすくなると思うから。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の言葉もあるように、「コロナ過ぎれば感謝の心忘れる」にならないように気を付けたい。
☆昨日通りすがりに見た池の鴨。もし鴨に生まれていたら、鴨の人生(鳥生?)を生きるしかないが、折角人間に生まれて来たのだから恵まれていることを忘れず、人の人生、自分の人生を感謝しながら生きて行きたい。
Dr.1183 遠い記憶(2月5日)
最近のことはなかなか覚えられない反面、昔のことはよく覚えているってことは割とある。でもこの前、むかし昔に行ったことがある自治研修所のことが話題になって思い出してみたが定かではなかった。昔のことは覚えていると思っていただけに、昔の記憶にも陰りが見えて来たかとチョットショックだった。
ドクターが自治研修に行ったことは確かだと思うが、何時だったのかは勿論、その時どんな立場(役職)だったから普通の教員は行かない自治研修所へ行ったのか思い出せない。講義の中身は勿論覚えていないが、行き帰りが坂道だったとか、朝の体操を外でやったとかは思い出すが、みんなで登山したのがこの研修だったのか別の機会だったのかは定かでない。覚えてることと不確かなことがある、いわゆる「まだらボケ」って感じだ。
「まだら」と言っても完全に覚えていないことは覚えていないかどうかも話題にならないので、もっと覚えていないことは多いのだろう。このように今後記憶の覚えていない部分、不確かな部分は増えていくのだろう。
いくつになってもよく覚えている人はいるが、人と比べても仕方がないし、「出来ないことが増えた」と昔の自分と比べても仕方がない。ここはやはり、なるようにしかならないと開き直って、今ある範囲で、いまある力で前向きに元気にぼつぼつ生きて行きたい。その生き方でどんな役が回ってくるのか、どういう生活環境になるのかは周りに任せて、できることを自分なりに精一杯ぼちぼちやって行きます。
☆いつものドクターの部屋から見える山の風景。山裾の間伐が進んですっきりしてきている。要らない記憶(特に思い出したくない記憶)の間伐が進めば、すっきり生きられるかな。
Dr.1182 豆の数(2月4日)
昨日の節分には豆を年の数+1食べる風習があるようだ。その年齢が数えか満年齢かあいまいだが、とりあえず66個食べることにした。そんなにたくさんいっぺんに食べられないし、小分けして食べるにしても毎回きちんと何個食べたか、後何個食べるのか等と考えないアバウトなので、実際今まで何個食べたかは定かではないけど、ともかく66という数字に驚いている。
自分ではそんな歳になった自覚はまったくないけど、そうなりつつあるのは間違いない。60前半はまだ年寄りと言うイメージはないが、60後半は一般的には高齢者に間違いない。
豆の数から自分の人生での年齢的な位置づけを再認識した。だからといってどうなのかということだが、やはり一番はこの齢まで元気で過ごさせてもらっていることに対する感謝の気持ちだ。いろいろ不安や心配はあるが、まずは現在まあまあ元気で何とか動けていることに対する感謝の気持ちは大きい。この気持ちを忘れず、自分の出来ることを精一杯やるだけだ。大したことはできないかもしれないが、精一杯しかできないのも事実なので、まあ周囲に感謝しながら今日もボチボチ自分の出来ることを出来る範囲でやって行きましょう。
☆自分の今の位置(人生の年齢的な位置づけ)を噛みしめ感謝するきっかけとなった節分の豆。
Dr.1181 経年劣化(2月3日)
定年記念に教え子たちからもらった腕時計のネジがとれた。そのネジが何の機能を果たしているのかよくわからないけど、時計屋さんに修理してもらおうと思っている。
人間の身体でも経年劣化はあるだろう。ある日突然大きな障害が出ることもある。機械と同じで仕方がない面もある。しかし、出来るだけ大事に使って(無茶をしないで)長く使いたいと思う。
いくら大事に使っても夫々の寿命というものはある。経年劣化や変化や寿命は万物の定めと言うことはあるだろう。ここのところは厳しくてもしっかりと覚悟して受け入れて行かなければならない。
精神的な耐性にも経年劣化があるのだろうか。ちょっと心配だが、変化するものは変化する。今回の時計のように、劣化や変化は受け入れできる対処をしていくしかない。できることがなくなったら、そこは事実を受け入れ先に進むだけだ。
時計の壊れを見て、いろいろ思ったが、結局は劣化であろうと進化であろうと変化を受け入れて前に進むということだろう。
☆壊れた時計を見ながら、万物の変化を受け入れていくことについて考えて見た。少しは真理に近づいたような気もするが、どうせまた迷いがでてくるだろうな、人間だもの。まあともかく今日もお元気で。
Dr.1180 摸索(2月2日)
どうも最近調子がいま一つである。体調はそれほど変わらないが、精神的に元気が出ない。「にもかかわらず笑顔」の精神で頑張っているが、大丈夫だろうか。
多分大丈夫だと思うが、不安はある。アフリカのある少数民族の言葉には「幸せ」という語句がなく、それは「死ぬことと、自分の牛が死ぬこと以外はすべて幸せ」だから、とりたてて「幸せ」という言葉を使わなくてもいいからだということらしい。
死ぬこと以外(生きていること自体)をすべて幸せと感じる人生観は凄い。それほど生きて行くのが厳しい環境にあるからだとは思うが、先進文明国においても自然の厳しさとはまた違った意味での生きる厳しさがあるように思う。
どっちにしても生きることの難しさ、厳しさがある人生で、生きているだけでよくがんばっているということだ。それ以上を求めすぎず、先ずは生きて日々を送る自分を褒めて、まずは今日一日を何とか乗り切るという精神で進んで行くとしましょうか。元気が出る生き方について模索する日が続く。
☆天気でも晴れの日もあれば雨の日・雪の日もある。人生の天気でもいろいろあると思って厳しい天気の時期を乗り越えて行こう。どういう考え方をしたら元気が出るのか模索が続く。そのうち晴れますように。