Dr.172 馴染みの散髪屋さん(10月21日)
今日の来客のために昨日いつも行っている散髪屋さんに行った。この散髪屋さんとは彼が篠山に店を構えて以来20年以上にわたる付き合いだ。子ども達の年齢も近く、私が散髪している間、子どもは住宅部分に入れてもらって遊んでいる。ちなみに子どもが散髪している間、ドクターは店に置いてある週刊「文〇」を読んで過ごす。いつも散髪をしてもらってる間に散髪屋さんととりとめのない話をするのだが、昨日はドクターが今一番興味のある「仕事を辞めた後の生活をどのように充実させるか」について話を振ったが、彼は「・・そうですね」「まあ、そうですね」とか何とかあまり乗ってこない感じだった。その時気付いたのだが、散髪屋さんには定年がなく、やろうと思えば幾つまでも現役でやれる。「いつまでも働けるというのは、経済的な意味だけでなく生きがいという点でもいいですね」と言ったら、「まあ、そうですけけど、この仕事も客の自分勝手な話題(例えば定年後の生活など)にも合わせなければならなかったり、まとまった休みが取れなかったり、客が無くても店から離れられず運動や他の用事をする時間がとりにくかったり大変なところもあるんですよ」と言う。「その通りですね。何事にも良い面があれば悪い面があるものですよね。例えば・・・」と得意の「何事にもプラスマイナス両面があるので一喜一憂せずたんたんと生きよう」という話に持ち込もうとしたら、また気のなさそうな様子だったのでその話に深入りするのはやめた。
☆写真屋さんの前で息子に撮ってもらった、散髪前・散髪後のドクターの写真があるのですが、今のところ更新がうまく行かないので後刻アップします。誰もそんな写真待ってないか。
(追伸)今は後刻です。残念ながらアップ機能が回復しましたので、皆さんお待ちかねではないと思いますが、一応写真アップします。すみません、息子にブログ用写真を撮ってもらうのは初めてなので見てやってください。
Dr.171 チューインガム型人間(10月20日)
昔から人には、「チューインガム型」と「スルメ型」があると思っていて、自分は「チューインガム型」だと思う。「チューインガム型」は付き合ってみるとはじめは美味しい(面白い、何か出来そう感がある)が、すぐに味がなくなるタイプで、「スルメ型」は噛めば噛むほど(その人を深く知れば知るほど)味が出てくるタイプだ。「チューインガム型」ドクターは始めての人には美味しく見えるのか、いろんな過大な申し出を頂く。「市長選に出ませんか」「JA祭りの舞台に出てください」「集会の議長や発表者をお願いします」「周年イベントのパネラーの一人として出てください」等々。よくドクターを知らない人からの申し出が多い。本人を知るほどに評価は下がり、家族からの評価は最低となる。「人から頼まれたことはやってみる」を信条としているドクターとしては、過大な申し出もすべて引き受けても自分としてはいいのだが、なんぼなんでも無茶だと思えるものは周りの人が迷惑するだろうと思って、断ったり、思案中だったり、引き受けたりしている。ところで「チューインガム型」」と「スルメ型」の分析では、「スルメ型」の方が素晴らしいというのを言いたいわけではない。人にはそれぞれの持ち味があって、「チューインガム型」も必要だし、「スルメ型」も必要だ。要は自分の特性を知り、場面に応じてうまく役割を果たしたり、両者が協力したりするのが良いということが言いたい。また、自分の型を弁護するわけではないがが、「チューインガム型」は味が亡くなっても捨てないで噛み続けると、それはそれで味わいが出てくるということを申し添えたい。
☆秋の気配が漂う気持ちの良い天候の中を「チューインガム型」人間が行く。あなたも一度噛んでみませんか。
Dr.170 自分は困らない(10月19日)
丹波篠山黒枝豆の配達(大口は配達している)から帰る途中に「注文した数より10個少ないんですけど」と電話がかかって来た。その日にもぎ取った豆を袋に全部入れたら注文を受けた数とピッタリ一致したことに驚き嬉しさのあまり注文先に飛び出したら、10個少なかったということだ。段ボールの底一段に10個並ぶが、1段しか入れていないのを2段と勘違いしたようだ。先方には申し訳ないのだが、ドクターの偉い所は、10個少ないと言われても「そんなはずないんですけど、もう一度よく数えてみてください」などと反論しないことだ。すぐに間違いは自分の方だと認める潔さがある。それほど最近は自分のウッカリ忘れに自信を持っているということだが。うっかり忘れは誰にもあることだし、それがそこそこのレベルで安定していると、それはそれで慣れて何とかやっていけるのだが、最近のように忘れ程度が進んで来ると自覚がある場合は「どこまで忘れ度が進むのだろう」という不安が出てくる。ところが今日の本には「忘れても自分は困らない」ということが書いてあった。確かにそうだと思って少しは気が楽になったが、「困るのは周りの人である」ということも書いてあり、「周りの人に迷惑をかけるのは嫌だなあ」と少し気分はへこんだが、「仕方のないことは仕方がない。あきらめるしかない」というようないつもドクターが言っているようなことも書いてあって、また「やっぱりそうだよな」と少し持ち直した。まあそのうち「最近物忘れがひどくなったなあ」という自覚自体を忘れるかもしれない。ブログ更新がなくなったら、「ドクターもついにそうなったか」と思ってほしい。
☆妻が出張中なので、かご一杯の洗濯物を干したらこんな感じ。
☆ばたばたですけど、子ども達も協力的で、いつもと違う子どもたちとの時間が過ごせて良い感じ。忘れてることも多いけど、何か「自分は忘れる」ということにも少し慣れてきたかな。でも毎日のトレーニングは忘れずやってます。トレセンのロッカールームで、誰もいない時に。
Dr.169 身体性(10月18日)
人間は脳が発達しているので、未来の事や過去の事、世間の目や他人との比較などが気になって悩むという説を読んだ。著者はだから、人間も他の動物のように脳に頼り過ぎず身体性を取り戻せと説く。そういえば人生に悩んでいる動物を見たことはない(ような気がする)、犬も猫も小鳥たちも楽しそうに暢気そうに自然に暮らしている(ように見える)。身体性を取り戻すということがいま一つよくわからないが、よくわからないと言って悩んだり、よくわからないと行動に移さないという態度が間違っていると言いたいのかもしれない。とすれば、「あれこれ考えすぎず、毎日をやることで一杯にせよ」というドクターの出した結論と「ほぼ毎日トレーニングセンターに通う」というドクターの日常は、著者の趣旨に合っているように思う。もしかすればドクター説はこの人の受け売りかもしれないが、そんなことは気にしてはいけないということだ。ともかく頭で考えすぎず身体をいっぱい使う生き方で定年後憂鬱に打ち勝つぞと頭で考えた。
☆外回り仕事の合間に某牛丼屋でカルビ丼を食べて喜び、
☆帰って黒豆の枝豆取りで忙しい中、妻が修学旅行引率で留守のため子どもたちのために夕飯をつくり、トレーニングに出かけたこの日の行動は身体性に適っているだろう。夕食後は疲れてすぐ寝た。
Dr.168 苦悩を打ち砕くお気楽(10月17日)
初めてこのブログを見る人と自分自身のために、ここで今一度このブログのテーマを確認しておきたい。そもそもこのブログは今年3月県立学校を定年退職して、本人がライフワークと考える冒険教育指導を勇んで始めたドクター(丹後が自分で決めた冒険ネーム)が、冒険指導の充実と時間にゆとりのあるゆったりした退職後人生の妙味を「お気楽な毎日」としてみなさんにお知らせしようと始めたものだった。ところが実際にこの生活を始めてみると、冒険依頼はそんなにないし、農作業で忙しい時はあるものの、ほとんど決まったやることのない毎日を如何に機嫌よく生きるかの難しさを痛感することとなった。そこでこの頃では誰にもいつかは訪れるであろうフルタイムの仕事を辞めてからの人生をどう機嫌よく生きるかがこのブログの主要なテーマとなってきたのである。そしてこのテーマへの今のところの解答は「とりあえず毎日をやることで一杯にして、あまり考えすぎないで、向こうからやってくることをたんたんとこなしていくのが良い」というあまりぱっとしないものになっている。昨日はいろんな人に出会って、ヒマな時間がなくてうらやましいと思っていた定年退職後フルタイム労働者の苦悩を知ったり、持ち前のお気楽さでその苦悩を打ち破っている元校長定年退職者から「やっぱり人生の苦悩を破るのはお気楽さ」ということを教えてもらったりした。
☆朝〇ック後、外回りの仕事に出かけ、帰ってからは机上仕事をしてから百姓仕事。
☆忙しくて悩む時間を無くす策を実践するドクターと結構採り入れが進んだ黒豆畑。
☆丹波黒枝豆を求めて遠い道のりを来宅頂いた根っからのお気楽道達人。