Dr.358 修正力(6月3日)
ドクターの母校である丹波篠山市立Y小学校3年生の親子活動の指導をした。普段は中高生や大人の指導が多いので小学校低学年の指導は未開の領域だ。よくこの年代の指導をしている友人に聞いたり本などで調べて本番に備えたが、いざやってみるとこちらが出来ると思っていたことが難しかったり、こんなことを面白がるのと言うことを面白がったり、この学年では無理と思っていた課題解決的なことができかけたりと想定外のことだらけだった。でもそこはドクターやってみて無理そうだったら「次行きますね」って感じでどんどん修正を加え、後半にはこの学年、この集団の感じもつかめてきて、やる前から予定していたアクティビィティを修正・変更したものもある。結果的には楽しく親子で活動し仲間づくりをするという目標が達成できたのではないかと自己満足している。それに参加者を目の前にして活動を瞬時に修正して満足してもらえる域まで持っていく自分の修正力は大したものだと自己過大評価もした。やはり冒険や楽しい時間を提供するのは天職ではないかとさへ過信した。結局ドクターの得意分野は自己満足・自己過大評価・過信ではないかと思う。それはともかく楽しい時間を共にすることが出来た子ども達・保護者のみなさん・担任の先生(彼女はドクターのいた三田S高校の卒業生であることも分かった)ありがとうございました。
☆修正力を活かして行った母校の小3親子活動は(参加者はともかくドクターは)気持ちよくやれてエネルギーを貯め、午後からの黒豆畑管理機かけ(虫よけの網をかぶってますけど)は順調だった。母校の小3生は元気でやさしく集中力もあり、先輩ドクターのように毎回修正力でその場を何とか切り抜ける必要は全くない。
Dr.357 ハッピーバースデー(6月2日)
昨日はドクターの62回目の誕生日だった。特に誰からも「ハッピーバースデー ツー ユー」を言われたなかったので(妻の用事電話ついでにちょこっとを除く)自分に「ハッピーバースデー ツー ミー」を言った。メール等では何人かの方からお祝いメッセージを頂き、特にドクターイラスト(当時は絶こうちょうイラスト)を描いてくれた数年前の卒業生が「また会いに行きます」メッセージをくれたのは嬉しかったが。昨日会った人が「ハッピーバースデー」を言ってくれなかったのはそもそもドクターの誕生日をご存じないのだからしかたがないし、誰からも直接言ってもらえなかったからひがんで言うわけではないが(少しひがんでますけど)、人からいわれる以上に自分で自分にしみじみ「お誕生日おめでとう。よくぞこの世に生まれてこさせてもらって、これまで様々な体験をさせてもらって、いっぱい失敗や失態もやらかしているにも関わらずまだこうして生きさせてもらって、特に身体に痛いところもなく夜には細々ですけど美味しいお酒も頂くことが出来ている。こんなありがたいことがあるか。自分がこれまで関わった全てのみなさんと神仏・宇宙の意志等の大きな力の皆様に感謝しながら自分が出来る背一杯のことをやっていこう」という意味を込めて「ハッピーバースデー ツー ミー」を言いたい。
☆誕生日の夜は会議もあって一人晩酌だったけど、その前日は気の合う元気な丹波篠山人仲間と美味しい居酒屋で一杯しました。こんな美味しい目を前日にしているんだから、誕生日当日に誰も直接「ハッピーバースデー」を言ってくれなかったからと言ってそれがどうしたというのか(このおっさんまだ言ってますけど)。
Dr.356 マロニー(5月31日)
20年近く冒険教育界でやっていると(途中10年ほど関りが薄い時期がありましたけど)その関りで知っている人は多い。但馬の鉢伏高原に中学生を指導に行った時にかつて嬉野台生涯教育センターに来ていたマロニー(確かこの冒険ネームだったと思うが間違っていたらゴメンナサイ)に出会った。10数年前彼に出会ったときは確か高校生ぐらいだった(ドクターではなく彼が)。今も大阪の子ども会に関わり時々指導をしているという。最近の記憶は不確かだが昔のことは覚えていて、その時彼が思いついたティッシュペーパーを薄く剥がして吹き合うアクティビィティは今も時々使わせてもらっており、それを彼が編み出したのもよく覚えている。久しぶりの再会に当時のことが思い出され、それにつられて以前このブログで取り上げた「リョウチン」の姿も出て来た。そうこうしているとその場にかつて嬉野台生涯教育センターに研修しにやってきていた人にもお会いした。なんとその人は態々その日のドクターの指導に付き合ってくださった。あまり成長のないドクターの指導で参考にならなかったであろうことは申し訳ないけど、こうした昔の知り合いに出会いながら新たに出会う若い指導者とも一緒に活動できるのは幸せだ。指導が終わってからも若者指導者はいろいろと語り合っていたが、おっさん指導者ドクターは早めに切り上げ、その日の疲れを癒すべく近くの温泉へ向かった。温泉へ行くのはただ単にサウナで汗を流して晩酌を美味しく飲むためだろうという声もあるが、ともかく同じ業界に長くいると専門性の向上は別にしてもいろんな引き出しは増えてくる。
☆山深い但馬での冒険指導でかつての知り合いマロニー達に会い、その後ドクターが入った温泉は「合格の湯」だった。今更何の合格を祈願するのか、いやいや成り行きで引き出しが増える60歳、まだまだこれから挑戦しなければならないことも出てくるかもしれない、しっかり浸かろう。あくまでも成り行き自然体ですけど。
Dr.355 餅は餅屋(5月30日)
この前鋤いた畑をスコップで直していると、通りがかられた息子の小学校時代からの友人のお父さんが、北海道で大学生活を送る息子さんのところまで車で行かれたという話をされた。「青森まで北陸道を12時間ほど走って、フェリーで北海道へ渡って、そこから又車を走らせて息子の下宿まで行き、帰りはまた逆コースを車で帰ってきました」といわれる。その間ずっと一人で運転され奥さんは横で寝ておられたらしい。その方は普段から大型ダンプを運転されている方で、言わば運転のプロだからこそできたのだ。常人では考えられない。「丹後さんとこの息子さんは横浜ですよね。横浜なら下道(したみち、高速道路ではないという意味)で行きますよ」とも事も無げに言われた。その道の専門家の力、恐るべし。餅は餅屋と言う言葉があるけれど、やはりその道一筋のプロの力量は半端ない。改めて餅屋(プロ)の力や考え方の凄さに気付かされた。そして社会で活躍(仕事)されているみなさんもそれぞれその道のプロとして確かな実力を持っておられることも思い至った。とここまで考えて、自分はいったい何のプロだろうかという疑念が湧いてきた。冒険教育のプロと言いたいけれども(またある意味言わなければいけないのだろうが)、そこまで自信があるわけでもない。かつて教えていた高校日本史のプロかと言われても、一番覚えている授業が「仏道のマネ」と言うのだから推して知るべしだ。それではその後成り行きでなった学校管理職のプロかと言われても、生徒と遊ぶのは得意だったがそれを管理のプロとは言わない。こう考えて見ると、自分にはこれといった餅屋の分野がないことが分かる。それでも何とかこれまでやって来て、今でも何とか生きている。これは強いて言うなら自分は「特に専門が無くても何とかそれっぽくやっていくプロ」と言えなくもないか。仏縁や神恩、天の助けで何とかやってこれたのも忘れてこんなことが言えるとは「お気楽道のプロ」かもしれない。
☆自分のことを「特に専門がないのに何とかやっていくプロ」とほだきながら日課のスロージョギングをするドクターはもちろん走りのプロではない。
Dr.354 無くしたものを数えるな(5月29日)
気合を入れて「空白の一日」をどう過ごしたのかと言えば、結局、溜まっていた雑用処理を除けばとサウナと筋トレだった。結局自分がしたいこと、好きなことはサウナで汗を流し、トレーニングで汗を流して夕食に美味しいお酒(ビール&焼酎等)を飲むことだということが分かった。自分が美味しい晩酌を飲むために生きているということが分かってショックだったが、その時ラジオから「無くしたものを数えても仕方ない、前を向いて生きて行こう、だんだんよくなる だんだんよくする」というような歌が聞こえてきて胸にしみた。無くしたものは気になるが、生きがい、仕事、お金、若さ、体力、記憶力(これを無くしたおかげでもっともっとあるはずのこれまで無くしたものがこの程度しか思い出せない)等、いくら数えても嘆いても返ってこない。帰ってこないモノをいつまでも気にするのはエネルギーの無駄、建設的でないことは思考力を無くしつつある頭でも理解できる。なかなかスパッと割り切れはしないが、歌の歌詞ではないけれど、無くしたものばかりを気にせず、今あるものや恵まれているコトに感謝しながら、今出来ることや自分に出来る「貢献」をしていきたい。これもホントにそう思うけど、実際には今晩も無くしたものを数えながら酒を飲むのでしょう。
☆空白の一日は結局、お気に入りのモーニングを食べてちょっと大学へ行って、水辺のある公共の風呂屋でサウナに入ってトレーニングで汗を流して、一杯やって快眠した。これで無くしたものを数えなければ結構いい時間の過ごし方をしたかもしれない。