Dr.501 そつない人(11月9日)
妻から「あなたはそつない人」と言われてショックだった。「そつない」とは抜け目なく、要領の良いという意味だが、自分では雑でいい加減な性格と思っているので、長年一緒に居てそんなことも分からないのかという感じだ。「そんなことも分からないのか」と思っても、決してそんな言葉は口にしない。家庭平和のためと、もしかしたらドクターは自分ではガサツだと思っているが人から見ればそつなく見えるのかもしれない、自分にはそつない一面もあるのかもしれないと思うからだ。よく講演などで「自分のことは自分が一番よく知っていると思うのは間違いです。人から勧められたことは自分には無理だと思ってもやってみよう。自分では知らなかった可能性が開きます」と言っている手前、自分では長年自分のことをガサツと思ってきたが、ひょっとすると自分では知らないところでそつない面もあるのかもしれない。そつないのも悪くないなと思いながら、もう一度妻に聞いてみると。「あなたがそつない人でないことはよ~く知っている。ただ外部の人や子どもたちはあなたのことをそつなく仕事や役割をこなす(ちゃんとした)人と思っているので、自分の悩みを相談しにくいのではないか」ということだった。子ども達が何でも相談してくれないのは困るが、やはり自分は「そつない人」でなくて安心した。別に「そつない人」が悪いのではなく、「そつなく生きられる」のは、それはそれで素晴らしい才能だと思うが、自分のキャラではないなと思っているからだ。妻が夫の性格を見誤っていなかったのには安心したし、「そつない人などと思われず、もっと子供たちの相談に乗るように」注意されるのもいつもと同じなので安心した。
☆この前のイベントでもそつなく甲冑を付けた副市長と写真に納まるドクター。なるほど世間ではドクターのことをそつない人と思うのかもしれない。自分でも分からなくなってきた。

Dr.500 苦悩なく生きる術(11月8日)
市民文化講座で「苦悩なく生きる術」という講演を聞いた。お話してくださったのは亀岡市のお寺の住職さんだ。この世は「一切皆苦」であるという釈迦の悟りの解説で、「苦」とは苦しいこと・しんどいこと・辛いことというより、「思い通りにならないこと」というお話が心に残った。考えて見るとその通りで、希望と現実のギャップから苦しみが生まれる。ここからは講演をもとにしたドクターの解釈だが、だから苦悩をなくすには「思い」とか「希望」「夢」「望み」みたいなものをはじめから持たなければいいということになる。
「人生の夢や希望を持たずに生きろ」などとはとても現役の校長時代には言えなかったが、ドクターと同じく悩みやすい人には役に立つ考え方だと思っている。とりたてて夢や希望が無くても、人はこの世に生まれてきた、そして今生かされていること自体に何らかの使命を託されている。社会や誰かから必要とされていることに応えていくこと自体が立派な生き方になっている。上手く期待に応えられなかったとしても自分が精いっぱいやったのならそれでいい。精一杯以上はできないのだから、できなくても仕方ない。第一いくら悔いても過去は変えられず、次の今の課題に取り組むしかないし、それでいい。このあたりのことを「自分がやる羽目になったこと、流れやご縁で引き受けたことを全力(自然体)で取り組んでいく生き方」としてこれまでから提唱している。課題はこういう生き方をしているのに悩みが時々やってくることだが、今回の講演をきいて考え方の方向としては間違っていないことを再確認できた。後はもう少し修行して実践を深めていくことだ。「修業が同時に悟りである」ということも今回学んだのだから。やはりポイントはこの辺りか。
☆講演会の前に地元の小学生を高城山八上城に案内し、「八上に愛着と誇りを持ってほしい」「高城山が大河ドラマに取り上げられるかもしれない今回を契機に、地元の歴史や課題に興味を持ってほしい」という熱い思いを伝えた。結果は思い通りには行かなかったが、精一杯やった後は「思い通りに行かないのが人生」と過ぎたことは思い煩はないようにしたい。



Dr.499 人生最後の日(11月7日)
長い間気になっていた、葬儀に参列できなかった方のお宅にお邪魔し、遺影にご挨拶することができた。新年の挨拶を辞退する喪中はがきが届いたのをきっかけに思い切ってご自宅を訪問したのだ。そこで奥様に亡くなられた時のお話をお聞きすることが出来た。ドクターより数年だけ年長のその方の最後の日は、なんと何の前触れもなく訪れたとおっしゃる。いつものように夕方の散歩をして夕食を食べて寝室に入られたきり出てこられなかったという。人生最後の日がいつやってくるかは誰にも予測できないが、こんなにも突然訪れることがあると知って愕然とした。亡くなられた方のご冥福と残されたご家族のご健勝をお祈りするとともに、この方からのメッセージ「いつ人生最後の日が訪れるかも分からないのだから、今日が人生最後の日だと思って生きなさい」を大事に日々を送っていきたいと思う。とはいってもバタバタ忙しく毎日を送る生活が変わるわけではないが、バタバタ用事があって健康でその用事がこなせる今の自分の境遇に感謝することと、少しは人の役に立つことを心掛けることを忘れないようにしたい。そもそもゆっくり過ごすより毎日用事があるのがいいと思って選んでいるバタバタ人生なのだから、「バタバタ バッタンキュー」が自分には似合ってると思う。できればもう少しバタバタした後で人生最後の日を迎えたいが、このことは思い通りにならない人生の中でも最たるものだからどうしようもない。どうしようもないことは受け入れるのがドクター哲学だが、人生最後の日まで穏やかに受け入れられるかどうかは自信ないが、考えて見たら自信ないも何も最後の日が終わってるのだからどうしようもないか。
☆秋のススキ原を眺めながら、人生最後の日に思いを馳せるドクター。でもこの写真も実はバタバタした中で撮りました。やはりドクター人生バタバタです。


Dr.498 冷たい人間(11月6日)
これまで自分は「熱い人間」、もっと言うと「暑苦しい人間」と思っていたが、昨日インフルエンザ予防接種受診のため病院で体温を測ると35.5℃で、受付の方から「低いですね。いつもですか」と言われた。その時は病院へ行く前にトレーニングをしたので汗で身体が冷えたのかと思っていたが(これも可笑しいですね)、今朝また図ってみるとやはり35.5℃だった。これまでは生き方も熱くかつ厚かましかったたし、実際の体温も高かったように思う。夏場は近くにいると汗っかきだし熱いので嫌がられ、逆に冬場は暖かいので人気があった。それがいつのまにか冷たい人間になっていたのだ。人情に疎く心が冷たいのは嫌だが、身体が冷たいのはクールでかっこいい、自分も遂にクールな人間になれたかと上機嫌で思っていたが、ネットで調べてみると老化によって体温が下がり、低体温はいろんな病気の原因になるということが分かった。ショックだ。この前の血管年齢84歳にしても、今回の低体温35.5℃にしても、確実に身体は老化しているということだ。見た目は若くあまり変わっていないように思っていたが、内実は確実に高年齢化が進んでいる。非常にショックだが、どうしようもないものはどうしようもないとして受け入れるのがドクター流の生き方だ。勿論、運動や食事に気を付けるなど、出来ることはできる範囲でやりたいが、これも無理せずあくまでも出来る範囲で、自然体で日々やるべきことをやりながら寿命までたんたんと生きて行きたい。それしかできないし、それでいい。
☆今朝の低体温に驚き、体温は低くても心は温かい人間を目指します。11月17日13:30からの丹波篠山四季の森学習センターで行われる「丹波平定」の講演会に一人でも多くの方に来てくださいと呼びかける、推進委員長として熱い責任感のドクター。熱いと言ってもぼちぼちですけど。


Dr.497 隣保付き合い(11月5日)
隣保の村の堤防共同草刈りがあって出役した。11戸ほどの隣保だが、草刈りに出てくる人はみんな小さい頃から顔なじみの先輩・後輩の人たちばかりだ。この人たちの中で暮らしてきて、この人たちと共に老いていく。そうはいっても普段はそれほど話をするわけでもない。皆さんそれぞれの家で自分の生活をされている。定年した方が多いので、多くは百姓と趣味(大工仕事・ゴルフ・旅行・音楽・ジムトレーニング:最後のはドクター)の生活だ。時々今回のように共同作業や月一回の集会、年に数回の飲み会、2年に一度の海外旅行:これがあるのがうちの隣保の凄い所です)などで顔を合わす程度だ。田舎ではこの隣保付き合いが大事だが、定年後生活にも隣保付き合いが大事だと言われている。顔なじみで言葉が交わせる隣保付き合いがあると安心するが、基本は一人で生きて行くところにある。自分で自分の生活を楽しめるか、やって行けるかと言うところが大事で、自分でやっていけないのに隣保の付き合いも出来ない。孤独と言えば孤独だが、孤独だからと言って寂しく惨めなわけではない。ドクターの場合、まだ完全に孤独快適生活をマスターできていないが、隣保の達人の皆さんを参考に、この道を究めていきたいし、最後は誰でも究めないとやっていけない。定年後生活2年目のドクター、マスターはそこまで来ているようにも思うし、まだまだ先のようにも思われる。ともかく隣保の付き合いも大事にしながらぼちぼちいきたい。
☆隣保の人との共同作業、堤防の草刈り。草刈り後の集まりでちょっと喋って、後はそれぞれの生活。定年後生活の縮図のような感じだ。



