Dr.472 愛嬌(10月9日)
神戸市にあるM高校で指導をさせてもらった。とても人懐っこい生徒達でとても気持ちのよい時間を過ごすことができた。素直な子ども達を前に調子に乗ったドクターはアクティビィティだけでなく、自分の人生を踏まえて教育とは人生とはなどについて熱く語った。頷いて聞いてくれる熱心な聞き手を前に自分の経験を話すのは気持ちが良い。その際持論の「人生を絶好調に送るには学力だけでなく、『上機嫌力』や『にもかかわらず笑顔』が必要です」と、この日はさらに「何かをするのに上等の動機は要らない」等と言わないでもいいことにまで口が滑った。しかし2時間の授業を終わってみると、この学校の生徒たちは「自分が教えてもらった先生にあこがれて教職を目指しています」等と語り、ドクター持論の「教育に一番効くのはあこがれ」というのを実践しており、さらに『ワープスピード』というアクティビィティ中、普通はこの活動では速さにこだわるグループが多いのにこの生徒たちは早さだけでなく「ありがとう」のことばを伝言することに拘るなど、ドクター持論2の「目の前の目標に目を奪われて、本来の目的を見失ってはいけない」もすでに自分たちのものにしていた。指導が終わって担当の先生とお話ししている時に、「これからAIなど人工知能などが発達する社会で人間に大事な力は『愛嬌』である」という説を教わった。これまでの『上機嫌力』に加えて『愛嬌』というすばらしいキーワードを手に入れることが出来てうれしい、講師に行かせていただいて良かった。「自分が学ぶために教師になった」という生徒に話した当時の自分と同じだ。
☆『上機嫌力』『愛嬌』ともに素質十分の生徒達と活動して、教えてるようで自分が一番教わったドクター。
Dr.471 セレンディピティ(10月8日)
セレンディピティは幸福な偶然とかいう意味だと思うが、先日ドクターがたまたまある高校を訪問したら、丁度その時ドクターとかつて一緒に勤務したことのある事務長と事務職員の方がドクターの噂話をしていたところだという。話をしていて外を見たらドクターのものらしき車が泊まり、ドクターが玄関の方へ歩いてきたのでびっくりしたらしい。ドクターの話しをしていた時にドクターその人が現れたのを幸運と言うかどうかは疑問だし、その時どんな噂話をしていたのか気になるところだが、それはともかく長い間あってない人の話をしたり思い出したりした時に丁度その人が現れるということは長く生きていると何度か経験する。これをセレンディピティというかどうかは別にして不思議なことだ。このように世の中や人生には科学的には証明できない出来事がある。これをドクターは宇宙の意志、天の意向、神の思し召し、仏のご縁あるいは単純に「流れ」と呼んでいるが、この流れを尊重して謙虚に感謝して生きることは大事だと思っている。何事もすべて自分の力、自分の精と思うのは、上手く行っている時には傲慢、上手く行かない時は意気消沈・自己嫌悪となって、どちらもよろしくない。ここは目の前の結果に一喜一憂せず、今自分の出来ることを精一杯やらせていただく。そこから出て来た結果や人生は喜んで受け入れる。自分は天に生かされている、祝福されていることを信じて。だってこの世に生を受けさせてもらったのだから。
☆天候や自然の恵みによって、今年も黒枝豆をお届けできる季節になりました。ドクターも出来ることはやりましたが、この収穫を迎えられたのは大きな流れの賜物だと思います。ありがとうございます。
Dr.470 Good luck(10月7日)
トレーニングで一緒になる市内中学校ALTが何度も自動車運転免許の実技試験で落ちているというから、帰る際にいつもなら「See you,again」(またね)というところを今回は「Good luck」(幸運を祈ってます)とあいさつした。彼は「ありがと ございます」と答えた。そう、ドクターと彼の会話はいつも英語使いたがりのドクターがいい加減な英語で話しかけ、もう何年も日本にいて結構日本語ができる彼が日本語で答えるというパターンが多い。それはともかく、「ここ(丹波篠山)の冬は寒いので車が欲しい」(最初は英語だったがドクターの理解が怪しいと踏んで途中から日本語で言いなおしてくれた)と言う彼に、次回こそきっと合格してほしいが、試験になると緊張してうまく行かないという日本人(ドクター除く)みたいな細やかな神経の持ち主なので心配だ。ドクターは試験や本番に強いというわけではないが、本番に臨むと緊張する余裕もなくドタバタ勢いでやってしまい、結果は神に祈るというタイプだ。そして神のご加護により今日まで何とかやってきたので、間違いなく自分は神と言うのか宇宙と言うのか大きな存在に守られていると信じている。もちろん試験に落ちたこともあるが(校長試験含む)、結果的にはいろんな巡りあわせで結構面白い人生を送らせていただいている。自分が全力でやった後に起こることは、自分はついてるのでその流れに従っていれば大丈夫と信じられれば、ジタバタしなくてもいい。問題は時々「本当に自分はついているのだろうか。このままで大丈夫だろうか」という不安が持ち上がってくることだが、それはそれで仕方がないのでどうしようもない。どうしようもないことはどうしようもないので、あまり考えすぎないで、次の本番に向けてまたドタバタ「えいっや」と取り組むだけだ。
☆深まりゆく秋景色を見ながら「自分はついている。ありがとうございます」と一息つくドクター。Good luck だけを頼りに歩んできた人生を振り返る。
Dr.469 お調子者の校長です(10月6日)
時々トレーニングで一緒になるかつての教え子が、一緒に来ていた職場の同僚にドクターのことを「この人は自分が高校の時の校長で、テレビにも出たこともある」と紹介した。「どんなテレビに出たん」と聞くので、「こんなお調子者の校長がいるというやつや」と答えると、「ふーん、お調子者のやつか」と納得している。ここは普通「そんな番組ないやろ」と突っ込まんかいと思いながらも、その後の彼らの話を聞いていると、その友達は高校はもちろん、小学校も中学校も校長など覚えていないという。別の友達も普通はそうやと同調している。改めて、かつての生徒が自分のことを覚えていてくれること、さらには得意げに友達に紹介してくれたことの嬉しさを噛みしめる。ただその特徴が「お調子者の校長」ということだけなのを申し訳なく思う限りだ。だが本当はお調子者の校長としてテレビに出たのではなく「嘘のような本当の話。卒業式で大笑いする空気の読めない校長」ということで取材を受けたのだが、そんなに変わりないか。ともかく、生徒の心の中に今も当時の思い出が生きていることの有難さに感謝しながら、期待を裏切らないように今度出会った時もお調子者の退職校長として元気な姿を見せなければと決意を新たにした。
☆丹波篠山黒枝豆の販売が解禁になって早速田んぼの中で機械で葉っぱをとって枝豆を収穫する姿が見られた。お調子者の元校長ももうすぐお調子者の現百姓として手で枝豆を取り始めます。欲しい方はメールで注文してください。600g=700円
Dr.468 でも・しか先生(10月5日)
ドクターが高校生の時には「でも・しか先生」と言われる先生方が多数おられた。今では信じられないかもしれないが当時は教職の人気がなく、「先生にでもなろうか」「先生にしかなれない」と言われた人たちが先生をやっておられたのだ。中にはもちろん学識豊かな方や人格高潔な方もおられたが、中には今では考えられないほどユニークな方々も多数おられた。ズボンのベルトの代わりに縄を巻いている先生。数学の問題を解いていて行き詰ると「おい、答えどうなってる」と生徒に問題集の解答を見させる先生。半年間、各グループで図書館などで調べさせ、後の半年で各グループごとに発表さる倫理の先生など個性的で人間臭い方々が一杯だった。こういう先生方に学んだお陰で「先生と言っても自分達と変わらない普通の人だ。失敗もすれば可笑しなことも言う」と先生を特別視・別格視しなくてすんだ。だから特別優れたところのない自分でも先生が出来るかもしれないと先生の道へ進むことができたのかもしれない。世の中には変な人も含めていろんな人がいるし、別にそれで良いんだと思うこともできた。少し前のように先生人気が高く、特別優秀な(試験に強い)人で無難な(特別目立つようなキャラでない)同じようなタイプの人ばかりが先生では、生徒もやりにくいだろう。カムバック「でもしか先生」。幸い最近では教職の倍率が下がって、いろんな人が先生になるチャンスは増えてきた。個性的で多様な人が先生になって、それぞれの味を活かして子どもに接してほしい。子どもに対する愛情だけはかつての「でもしか先生」のようにあってほしいが。
☆「でもしか先生」であろうと、ドクターのように「自分が楽しむ先生」「流れで先生」であろうと子どもや参加者のことを大事にする気持ちは持っていてほしい。